So-net無料ブログ作成
諸島の謎々 ブログトップ
前の30件 | -

雨燦々と・・ [諸島の謎々]

冬将軍到来っすね。
今年も暖冬だとは聞いてたけど、急に冷え込んできてる。

大きなジョロウグモも少なくなってきたので、藪にも近づき易くはなってきたけど・・

2日の23時前後から、2時間くらい戦闘機が飛んでいる様子あったの思いだした。

瀬戸内海380kmくらいを縦断で往復する感じだったと思うけど、高度が低かったのか、マッハ2~3くらい出てたのか、結構、深夜の騒音だったのよね~。

その後も、朝まで、スクランブルっぽい夜間演習飛行続いてたと思うけど、高度もあがった感じで音も静かにはなってたけど、・・なんかあったのかね。?

たぶん岩国のステルス機ですよね。F35かな !!

まぁそれはそれで良いんですけど・・


すり石土器.JPG
ついに湾曲になってる石みつけました。
これって礫石器の皿石とか磨き石とかではないですかね。?
材質自体は、鎌倉時代頃に良く使われていた凝灰岩か砂岩って感じですけどね。

丸太木片01.JPG
その近くには、こんな丸太の破片があった。根元だけみたいですけど、その不自然さから、竪穴式住居の柱につかわれてたものではないかなって思えてるんだけど・・?
長く土の中にあったようですけど、この老朽化具合は、1000~2000年以上ですよね。

高杯.JPG
それから、これ、高杯みたいな土器らしきですが、一昨日の強風と雨で、やっと全容も明らかになりつつあります。
特殊器台形土器だとすると、やはり古墳なども眠っているのではないかとか思うよね~。

ただ近くの土製管に関しては、そのモロさから、羽口ではないかと思えているので、焼き窯の存在も疑われてますけど、刀剣や勾玉とか出てくれば間違いないんだけどな~。



何処かで科学分析などしてもらえれば良いんだけど、古代のものならば地域的な財産ですから気軽に荒らされても困るしね~。

不思議なことに、かなり古そうな一升瓶の割れたものとかが出てきたりもしているので、注意していないとケガとかさせられそうっすわー。
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

難・知・如・陰 [諸島の謎々]

https://petamun.blog.ss-blog.jp/2019-09-12-1
https://petamun.blog.ss-blog.jp/2019-09-02
↑ の続きです。

瀬戸内海を中心に考えた古代西日本の支配圏の移り変わりから、邪馬台国は何処か、倭(ヤマト)王権へどう繋がっていったのかを推測してみた。

春秋(BC770 - BC403) 時代までには、貿易もあり船舶での行き来もあったのではないか、戦国(BC403 - BC221)~三国(BC220-BC280)時代に強襲され、邪馬台国は壊滅し、その頃に倭(ヤマト)王権へと移り変わって行くのではないかと・・

それがいわゆる逸話の神武東征ではないかと疑ってみてる。

それ以前、瀬戸内海を取り巻く環境は、それぞれの小国家があった事は史跡などで分かりつつありまして、勢力争いや狩り/漁場争いなどで小競り合いを続けたりしつつも、そのうち貿易的な繋がりも行われるようになっていったものと思いますけど、極論を言うと、既に連合国的な組織が出来上がっていたんだよね。それが近畿圏に位置する邪馬台国ではないかと

たぶん最終氷期の真只中で、日本に渡ってきた猿人を祖先に持つグループと、中国や朝鮮半島から、様々な理由で、はみ出してきた神々と呼ばれるグループが存在してますよね~。

前回も少し触れましたが、その頃、下関に運河が造られたのではないかと思うのです。天津の運河の話ししてますけどね。その後なので、大それた知恵もあった分けだわ。

最初は船が擦れ違うくらいの小さなものだったのだと思うけど、数百年で海流に侵食され続け今のサイズになったのだろうかと・・

神武東征が日向の国からと云われているので、その頃はまだ関門海峡は無かったんだろうと、単に思っただけなのですが・・

大雑把に分けると、九州勢は香港・台湾・上海・沖縄などから移り住んだグループで、山陰・山陽は朝鮮半島からのグループとなりますかね。

邪馬台国の長は卑弥呼というのには疑問が残りますが、大和地方が連合国だったならば在りえる話。その後継者は壱与(イヨ)という人物だったそうですから、卑弥呼のベースは愛媛で、伊予の国という地名が出来たわけですよね。卑弥呼=ヒメコの国なので愛媛なんだと聞いたことがある。


まぁ海猫の弥次郎兵衛的な与太話は置いときまして
調べていると熊本説や日向説や葦岳山が邪馬台国だという説とかも普通にあるのですが、そのすべてが謎のままですが、連合国つながりで西日本全体が邪馬台国の支配下だったとすれば不思議も無い。古代史の痕跡が山中の至る所、古墳が全国の至る所に残っていますから、どれも否定は出来ないですけどね~。

魏(220- 265)の時代、倭国の全域で主従関係の繋がりがあった分けです。

普通に歴史をさらっていると、どうにも解明できていないというのか、国内ではタブー視さえされているという感じも受けていまして、その理由は古代からの天皇家支配に関わりがありそうに思ったり、卒論用とかに史実暈かしが意図されているのか?!

激しい戦闘に巻き込まれて何もかもが破壊されたと考えると、無数の軍艦、軍隊も必要でしょうし、中国の戦国時代しか思い浮かばないな分けでして



何も確証はないけど、武田信玄の馬印の風林火山とかは、古代、最強だった勢力圏を記したものではないかと思ってみたのですわ(汗;)。

風は、伊予の国の瀬戸内海側の島々で豪族河野氏の風早の地。神風は伊勢。
林は、風が吹くと、一緒にざわめきはじめるのは、山陽と山陰や四国です。
火というと、やはり阿蘇や鹿児島のある九州エリアですよね。
山は、邪馬・・、朝廷のあった奈良盆地あたり、国々の連合組織です。


孫子の兵法にあるのですが、難知如陰。
大和平野の周辺には伊賀や甲賀がありますし、古代、瀬戸の海賊衆もその類ではないかと

日本書紀や古事記に出てくる逸話では、神武天皇の父が攻め入った際は矢に当たり敗れているが、再び神武天皇が攻め入った際には、多勢の協力国を引き連れ(瀬戸内勢力)、戦勝しているとのことですから。これらの逸話は、西日本で、瀬戸内海をベースに物事が論理だてられているように思える箇所が沢山あるように思えてて


兵法をまとめた孫武の子孫か、倭国担当の戦国武将の中のリーダーかが、この神武天皇の正体なのではないかと考えてみてるのですけどね。東征と言ってるのは、中国から見た場合、倭国は東方の島々だったからで、後に見聞録のジパングって呼び方も出てくるけど、これもパンパシフック(環太平洋)に浮かぶ J の形をした島という所から付いた呼称だと思う。確か学校教育では、野蛮人がなまってジパングになったって教えられてた記憶ありなんだけどね~。その頃の呼称が今も国名なんですわ。

後、大陸文化の影響で、古墳や運河が築かれ時代は急速に進化して行ったのだと思う。


それから古・今・東・西ってのも、邪馬台国に纏わる分け方かなって思うんです。風林火山の順で並べ代えると、東西古今ってなりますけど、今は、朝廷のある奈良京都で、古は、火の国、九州ですよね。著名な地名がダブってたりしてませんでょうか? 東は、四国、西は中国地域。

信じる信じないはあなた次第っすけどね\((爆;))/
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

大きな巻き貝でしたmm [諸島の謎々]

https://petamun.blog.ss-blog.jp/2019-10-20
https://petamun.blog.ss-blog.jp/archive/c316073-1
例の土中遺物ですが・・
ロッドの先にフォークみたいのをエポキシと木綿糸で接着したものを作りまして、それで表層土を除けてみてたのですが、まだまだやぶ蚊や大きなジョロウグモ多く、とても難航してまして・・


本日再び、カメラと三脚もって現場撮影してきました。
イトマキボラ.JPG
これ、たぶんナガニシか、ボウシュウボラか、イトマキボラかツノキガイかチトセボラとかの仲間だと思う。この巻き貝は、結構、土器にしてたりあるんだよね~。

頭蓋骨だと思ってたから、このタイトルだと
"大きな間違いでーしたぁー!!"" って感じっすけど~(汗:) まぁ、やっと一安心です(笑;)。

検索してると○×万年前の地層で発見とか採取とかってよくあるけど、それってかなり広範囲で地層が安定していないと、当てにならない事もあるから

ここら辺は土砂災害で出来た地層だと思うので、貝殻だと年代予測もできないっすわ~。

それにましてジビキかトロール網だと思うけど、初期のビニール網とそれ以前の綿製の網も見えてまして、まあ風で飛んできて絡んでそのうち埋ったという見方も出来ますが、いずれにせよ一緒に埋ってる感じだったので、以前の住人の漁師の方が、海でみつけて埋めたものではないかとの予想もできた。

土器の破片もたぶん同様ではないかとは思うけど、それが、必ず少量の貝殻と一緒に出土しているのでとても不自然なんっすよねー。

https://petamun.blog.ss-blog.jp/2019-11-04
そのアサリに関しても、場所の離れた数箇所で土器と一緒なので、まだどうだか・・


https://petamun.blog.ss-blog.jp/2019-04-13
ボロボロのサザエと一緒に出てきている土器とか、特に、なんか、ここ百年くらいの間に、人の手が加わっているって思えてならないから、結構、オーパーツ なのかも!!



で、今回判明した大きな巻貝は、このあたりの海で採取できるようには聞いていない種類なのですが、その昔は瀬戸内海(中予)にも分布があったのかも知れませんよね~。

堆積岩とかの中にある化石ではないので化石かどうかさえ判断できない現実!!
nice!(0)  コメント(0) 

本日の貝殻です。 [諸島の謎々]

廻りを海に囲まれた小さな島なのに、なんで二枚貝? ということで不定期で続けてますけど・・


確かに土器片は見つかってるけど、最近思うんですよー、どうも出土の仕方が変に思えてまして、もかすると貝塚ではないという可能性も疑ってはいたのですがぁ

農道が作られた頃に、誰かの手によって移動させられたか、埋められたのではないかという疑問です。


アサリですか.JPG
本日は、2枚の殻が合わさったままの貝も出てきました。左側の3つです。


ナノナピス.JPG
3cmオーバーのそこそこ大きさのあるものも見つかりまして、凡その種類、ナノナピスやホンビノスでなければ アサリ ですよね~。この放射状の肋と大きさ、形が特徴です。



アサリに文字.JPG
1枚目の写真の左下、何かやたらと傷が付いている感じのものが1個ありました。
アサリに文字1.JPG
船? 何かが刻まれているというか描かれている感じありますよね ?

nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

ノップ碍子の破片 [諸島の謎々]

またまた、なんか見つけましたー。

ノップ碍子02.JPG
厚みが10mmくらい。割れている様子だけど長さは32mmくらいある。

陶器質ですけど陶器ではなくて、たぶん碍子だと思って、ぐうぐるってみると密林で108円で売ってたわ。

これを使った屋内配線を、碍子(がいし)引き配線工事というらしく、主に木造家屋用みたいですかね。

許容電圧や電流とかでサイズが何種類かある様子だ。


※S36年頃までは使用されていたらしいです。内線規定の1962年(S37年施工)8月改正により、屋内配線は、がいし引き配線から、現在の電線管配線へ変更されたのを期に低圧配線では使われなくなっている様子。

ノップ碍子01.JPG
今回見つけた破片は、低圧 296ノップ という規格だと思う。

そういえば、今は畑だけど、確かに20年くらい前まで木造平屋の家屋がありましたわ。

住んでた漁師の方が亡くなられてから、直ぐに解体されたみたいですけどね~。

57年以前に造られてたものという事だと思うけど、そうでなければ別の家屋のものという事になるよね。

・・というのも、車の登れる農道ができたのが、たぶん、昭和47年前後(47年くらい前)だと思うので、その頃、その家はまだ建てられてなかったように思えてるのだけど、なにせ幼い頃の事なので、かなり I・My・Me でしたが
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

アシカがいたらしい [諸島の謎々]

19~20世紀に絶滅したと伝えられていますけど、かつて日本の沿岸にもアシカの生息があったらしいです。

このコーナーでは、最近ずっと、縄文土器の出土状況の特集してますけど

今、頭蓋骨みたいなものが見えてまして、まだ何かは分からないけど、大きさからするとスナメリかニホンアシカの骨かもれないと思っている最中なのですけど・・


そう考えていると子供の頃の記憶が蘇ってきてまして

島内は地域別に海水浴場があるのですが、高齢化の激しい島なので、盆前は何処のうちでも親戚縁者が子供連れで帰郷してたり少なくなくて、そういう方々が楽しめるようにと設けられているのだと思うけどね。

ニホンアシカ情報.JPG
45年くらい前に一度、大きな生き物の死骸が打ち上げられてたんですよね~。

当時の大人の話ではスナメリだと言ってましたが、細長いイルカの感じではないのを記憶してる。マナティかジュゴンって感じだったんですよ。

この海域はアマモが豊富に生息してます。100mくらい北側には磯もあり、魚介類も豊富でなんです。


その後、砂浜に穴をほり埋められたと聞いたまま、それっきりでしたけど、たぶん肌色も淡青ではなかったと思うし、ニホンアシカならば該当する可能性も無くはないのかなぁと当時を振り返ってますが・・

結構広いところなので掘り返すのは無理っぽいけど、まだ埋っているかもしれんよね~。

島の周りではスナメリも数年に一度くらいしか見なくなってるけど、かつては結構いたんですよ。群れでフェリーの周り泳ぐくらいはね。

ニホンアシカは陸に上がれるので古代から捕獲されていたようでして、遺跡からも出土しているとか、食用にはしていなくて、主に火油の抽出に利用されていたとかって記事もあったけど!!

ちなみにアシカの語源は、海の鹿という意味らしいですけど、もうひとつ、アブラメという魚を追っかけまわして主食にしていたようなので、いつも"油"の目先を泳いでいるという感じで、アイナメをアブラメって呼んでいたのではないかという説とか?

アイナメやトラハゼみたいなのは、鱗が極小なので、アジやサバ類と違って、尾びれ側からも捕食できる分けです。

余談ですけど・・
 ・油牛 → アザラシ
 ・油鹿 → アシカ
ではないかと思う事もある。ウミウシってのはいるし、古代アザラシとアシカの区別は無かったと思えるし、ただシカよりは猪(シシ)のが親しみはあったはずなんですが、尾ヒレでなくて足(アシ)ではないかとかね。足のある猪 → アシシからアシカへ

nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

知らなくて良い歴史 [諸島の謎々]

秋ですね。
うちの周りでもモズが騒がしい。今年は多そうですかね~。以前は低地には殆どいなかったんだけど野鳥も増えると害虫駆除してくれるので良い傾向です。たぶん農薬散布控えられているんだと思うけど、大きな女郎グモがやたら多くてあっちこっちで見てる現状。

しかし夜間20℃やーん。
冷え込みはじめてますけど、2ヶ月ほど乾燥続いてたから庭の植物も枯れ気味で大変だったのだけど、やっと雨降りましたわー。

秋雨前線と、20号台風の影響かもしれませんね~。

縄文土器&人骨かも.JPG
で例の畑の奥ですが、頭蓋骨ではないかと思われる白い丸っぽいものが見えてたという前回の謎記事ですけど・・

雨でPhoto左側のほうの土が崩れた影響で、見えていなかったところが見えはじめてますけど、予想より大きそうな予感ですね~。

何かはまだハッキリしませんが土器とかのサイズではないような?!

右側の四角いのは、しちりんと間違えていた縄文土器の一部、そろそろ落っこちてきそう。汽水域の2枚貝の殻も何枚か出てきてる。


https://petamun.blog.ss-blog.jp/2019-09-02
この前の記事ですが、庶民が知らなくても良いとされ、隠蔽された瀬戸内海の歴史があるのではないかとの謎・・

百舌鳥の古墳遺跡、仁徳天皇領かどうかは知らないけど、戦時中、朝鮮半島でやらかしたことの一部始終の軍の資料を燃やしている形跡が発見されているという記事を読んだ。

あれば 極東 ×級戦犯の結果も変わってたはずだね~。

隣国ともめにもめてた諸問題、政府は無かった事、条約交わしてすべて終わった事だと主張していたけどね(笑;)。

あと西日本の同和問題(昭和天皇の即位時の御言宣)にしても、世間が考えている事とは、まったく別の何かの意図があるばだと思えてるのですが、もっか不明のまま。

皇族、政府、軍部の一部だけしか知らない何かがあるんだと、最近、地域の歴史を探していて思うようになってますけどね~。

邪馬台国も関わってるのか、現実不気味な壁にあたってて、いろんな意味で足踏み続いてますけど、これから謎をどう解き明かすべきなのか、それが問題だわ。
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

石ころが石器に見えるわー [諸島の謎々]

https://petamun.blog.ss-blog.jp/2019-10-07-1
の続きですけど・・

磨耗石器かな01.JPG
なんか、石灰岩かな? ただの石ころなんでしようけど、やけに鋭利ですよね~。

磨耗石器かな03.JPG
こんなのが何個か転がってた。自然なのか、不自然なのか、これ石器だとすると、打製か、磨製かの判断も難しいし、随分、初期的な感じではありますよね。

磨耗石器かな02.JPG
割れ石を利用した簡単な作り? けがき用の筆記具とか・・

https://petamun.blog.ss-blog.jp/2019-05-18
あと以前の土製管ですけど、高杯の脚部ではないかと思ってたけど、ここのところの土器破片らしきの状況から見ても、羽口(炉の吸気管)の一部という検討もあるかもしれないですよね。

でも焼きものというよりは、粘土を固めただけ感も強くて、既に露出部は風雨でボロボロと崩れているから。 相当に古いもの、1万年以上前のものかもって考えてますけど・・

石炭かな001.JPG
これも前述の木炭か石炭か、天然ガスの影響を受けてる原油塊か、天然アスファルト(土瀝青)か、単に時代のゆるい泥岩か? って感じですけど、中の木片や種が炭化していないので火は入っていないようですし、石とは思えないほど軽い。珪藻土とかが自然に固まったものかも

確証に乏しい破片ばかりですけど
縄文期の焼き窯が埋っている説も検討するべきですかね ?
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

陶器 破片でた!! [諸島の謎々]

例の土砂崩れの付近を歩いていると、陶器破片、また見つけました。

お皿の破片1.JPG
お皿の破片2.JPG
描かれているものが日本製では無さそうな予感してますけど・・?
中国の青花磁器の皿って感じですが
・・安土桃山から江戸時代の海賊衆ご活躍の痕跡か南蛮渡来のご禁制の品かもしれんね。


不明破片01.JPG
不明破片02.JPG
こんな断片では、何なのかも分からないけど、これは何時くらいの時代のものでしょうか。土がレンガっぽいですけどね。そうとう古そうな壺の予感です。

瓶の破片01.JPG
これは比較的新しいです。瓶の破片という事も分かる。18~19世紀でしょうか。


変な石.JPG
種や木片が入ってそうですけど、これは弥生時代頃の粘土層の化石ですかね?! もしかするとこいうのが石炭なのかも

nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

茶ゃわんの欠片 [諸島の謎々]

ちょっと生き抜き・・
家屋の無い場所、土の中から、なぜこんなのが出てくるのか、謎ですが・・

ちゃわん欠片01.JPG
初期伊万里か青花磁器って感じの茶碗欠片ですけど、何時頃の時代のものかな?

ちゃわん欠片02.JPG
明治~大正頃かな

ちゃわん欠片03.JPG
量産品な感じですけど、国内流通品かどうか、それが問題だね。
nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

象形文字 発見か? [諸島の謎々]

https://petamun.blog.so-net.ne.jp/2019-05-18
こちらのコーナーで、以前に古墳ではないかとお騒がせしていた、古代プロジェクトの続きです。

https://petamun.blog.so-net.ne.jp/2013-02-05
農道作業で掘り起こされた丸石の一部と古代サンゴ化石に刻まれていた試し切りのような感じの痕跡ですけど
神代文字_0924_01.JPG
もしかすると日本固有の象形文字、神代(じんだい/かみよ)文字なのかもって思えてきた。


中央部 拡大
神代文字_0924_02.JPG
どうでしょうかね。
加工前のケガキ作業の痕跡かな?
自然に出来た傷としてわ、やや違和感ありなんですけど・・
文字ならば、石器時代、数千年前のご先祖からの書き付けという事になるね~。



こちらは、古代サンゴと思われる化石
https://petamun.blog.so-net.ne.jp/2019-07-14-1
古代サンゴ化石の傷.JPG
これはいつかは、まだ分からないですけど、近くの黒磯で引き上げられたものだとの予測で、全体的にかなり不自然で不気味なもの。

古代人が呪いの儀式とかに使っていたものかも

nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

台風17号通過 ドキッ! 新発見! [諸島の謎々]

竜巻があったようで宮崎県は、房総半島みたいになってる地域ありましたけど、こちらは昨夜の深夜と朝方に、15分くらいですが、ピーッ プーッと凄い風音で家もガタガタ揺れてたくらいで、朝になり近所見回してみたけど、被害らしきは見られなかった。

中国山脈と石鎚山脈の恩恵というのか、内海は運が良いです。雨もトータルで20mmくらいとの予測。

まぁ、中心気圧も高いし、足も早かったので、雨以外の心配はしていなかったのですけどね~。

 ★ ここで恒例の一句です。

内海の たる屋忙しい 潮待ちに 日暮れ迫らん 速き風どの
                   from うっぴぃ~


・・で、雨上がりは土器日和ということで、ここの所、Myブームなのですが~、マタマタでたわ!!。
台風17号通過 土器1.JPG
少しづづ明らかになってゆきますね。管玉かな?

https://petamun.blog.so-net.ne.jp/2019-06-18
右側は、↑ 以前 ↑ しちりんと間違えていた縄文土器の破片の一部ですけど、問題は左奥!!。

やや小さいけど頭蓋骨の後頭部に見えませんかね。?!

しかも、かなり古い感じの絹製?、魚網みたいなのが一緒に埋っている感じです。

縫合部は、見えないけど、骨なら、確実に所轄へ通報ですよね。


♪ おまけのカバー曲

米津玄師 LEMON です。


で、こちらはその拡大ですけど
台風17号通過 骨.JPG
色は無いけど以前のベンガラ土器と同じ感じの櫛目紋ですかね~、かなり微妙!!


鑑識作業が必要なのか? 行政サイドからは完全にシカトされてる感じなので、確証とかないと気軽には行動できない状況っすね。
nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

御為倒し [諸島の謎々]

"お・た・め・ご・か・し" と読みますが、妖怪の名前とかではありませんので、くれぐれ・・


★ 前記事の続きPSです。 :
地理院地図 ルーツを追う.gif
21,000年前が氷床MAXという事で、海退により、海面は標高-130mの位置で、この頃、大陸からの民族移動があった様子が伺える。大まかには地図の矢印の通りですが、この3~4民族の混血が日本人のルーツなのだと思えてます。ずっと後のことですが、中国からの移動民の何世代目かは、後に、鹿児島や日向地域に拠点を置き、九州全体を支配し中・四国地域、そして近畿へと支配エリアを拡大し進出した行くというのが、もっかのところ神武東征だと思えてます。


そして7,500年前頃には現在の海面と同じくらいに海進が進んでいるから、海面上昇の速度は、年間およそ1cm程度というのが史実。

平安時代は今より数メートル海面が高かったという噂があります。

あと、周期的にみて、地球は4度目の氷河期に突入している頃ではないかと言う話も

現在の温暖化現象の影響は、赤道付近で年間2cmくらいかな。? これは自然の状態とは2倍くらい早い反応とも

二酸化炭素の増加といわれているけど、エネルギー政策は顕著だと思えてる。何の影響かは戦後の生活を考えていると誰でも分かると思うけど、熱・・

いつまで海面上昇が続くのか分かり兼ねてますが、世界各地で異常気象は続いてまして、今の速度だと凡そ50~100年先ですけど、それが平安海進で氷床が無くなった時代だと考えると、その海抜+数mの先ですが、地球環境の予測もできないよね~。


あえて言うならば "ノストラ・ヤタの大予言" としましては、100年後の東京、夏の気温は50℃越え、冬の夜間の気温は氷点下50℃には達している日もあるハズなんですよー。

その頃、気候変動は特に超不安定期です。


氷河期の話に信憑性がでてくれば、5万年後には、また海抜-130mまで海退し、氷河期MAXなんだけど、その前に人類は今後の100年を乗り切れるのか、地殻変動や気候変動に関して、とても重要な今後50年になる可能性あるよね~。

極論を言えば、氷河時代に必要なエネルギーは原発なんでしょうけど、今の技術力では管理も難しいだろうし、今の地球人口ではウラン鉱石は数万年分は眠っていないよね。? お口減らし政策とかも暗黙で検討されているのかもだよね。

舵きり期間を考えていると、判断が急がれるというのが、世界レベルで会議が持たれている理由なんだとは思いたいけど、COP2x 気候変動枠組条約締約国会議では毎回、新しい枠組みも模索されている様子はあるといった状況。

悪く言うと、今ひとつ進展がないぞと言う感じかな。

まぁしかし、世界規模の経済会議や環境会議は、やはりこのような事への懸念から継続されているのだとは言える。

また近々、世界各地の企業や軍事部門でも、宇宙開発に拍車がかかっているのも、この予測があるからだと思えてきている。

更に言うと、氷河期が無ければ、地球は、もっと早くに水星や金星のような状態になっているのだと思われる。氷河期が来る原因を追究する必要があるよね。
nice!(1)  コメント(2) 
共通テーマ:日記・雑感

土器片 行方不明に・・ [諸島の謎々]

https://petamun.blog.so-net.ne.jp/2019-08-21
忽那諸島の縄文人

で採取していた貝殻と土器破片ですが、今後も出てくるだろうと言う事で、アミカゴに入れて現場畑に置いてたのですが、先日行ってみると無くなってました。

管理者に聞いてみると、ゴミの日に袋に入れて捨てたとのこと。

ちょっと考えられない事が・・\(汗;)/

前にも軽く伝えてたのですが改めて古い土器だと説明すると、何の価値もないモノだと言い張ってた。これ確信犯だわー。

とても強い偏見に満ち溢れてる感じでしたけど、これこそが、江戸時代以前の、この地域から歴史に関する情報がいっさいない原因なのかも知れないですね~。

7世紀後半の異国街だとか、平家落人村だとか、戦国期に小早川勢に滅ぼされて皆殺しにあってそっくり入れ替わっているとか(汗;)、セツルメント的な何か理由があるのだとは思うけど、島内でも、この地区だけの色濃い特色だと思う。

もしかすると白村江の戦い以降、百済王の子孫一族に与えられた区域のうちのひとつだったのかも

そうなると証拠の隠滅が疑われる?!
日本人気質とも言うべきかなぁ、公務側に多そうなタイプ。ぁ、それは良い過ぎか・・


まぁ無くなってしまったものは仕方ないのですが、時代予測や風体からして火焔系の初期壺とか可能性はあるのかなって思えてたのですが、近々の考古界は、かなりヤバイ気がしているのは自分だけかな~



// ここでひとつ
その火焔土器って、日本で独自に進化を遂げたものとの予測なのですが、最終氷期の真っ只中で起こった大陸からの民族大移動が、その要因なんだと思う。モチーフはきっと、焚き火や火山、荒れ狂う海など、当時の日本の風景ですよね~。

それ以前、人がいなかったのかと言うと、そうでもなくて、新石器時代、旧石器時代もあるから大陸には及ばなくとも文化はあった事は史跡や遺物からも分かりますけどね。


そして、この最終氷期が終わる頃に向い、海面上昇が顕著になり、いわゆる海進が進みますが、陸と陸とが遮断されたエリアも少なくなくて、そいうった現象が後に船を生み出してゆくのだと思った。

そしてその丸木舟も、ニーズに応じてというよりは、大陸からの影響で形を整え進化しつつ、BC3~BC6世紀にはかなりしかっりしたものになり、文化の重要な伝播を担うことになっていったのだと思う。

そんな最中、皇族支配が、この倭国ではじまった分けだ。

紀元前に遡る鬼伝説が全国各土地にあり、皇族の鬼退治話も良くありまして、勇敢な軍事国家が成立し易い環境も当時あったのでしょうね~。まぁいずれも何人なのかは分かりかねてますが

こんな狭い地域から出土しているなんて、結構、凄いことなのですがね~。この地域の人々、まじヤバイわ~
nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

高天原って何処? [諸島の謎々]

こうてんはらって打って漢字変換すると「府中店原」なりましたけど、府中ではないですよね?

地図では奈良や京都、大阪あたりに高天原って地名は沢山ありますけど、日本書紀や古事記の編集の際に、地名として置き換えたものとは思えてるけど。

内容は、神武天皇以前の神々の話なので、視野は広く倭国内に留まらずだとの予測もありまして~

高千穂峡や上高地のような秘境だとは考えたいものですけど、もしかすると中国の高地、更にその岩山の上ではないかとか、霧が立ち込むと見えなくなってしまうというウーロン茶とかの生産地かな?

神武中国人説といますか、神々って、共通して、両羽の剣や銅鏡や勾玉、弓とかを持っていたとされてまして、いわゆる三種の神器って奴ですけど、実際には10種類以上あるらしく~

これが、国々、種族、直系を示すものだとすると、大陸からの移住者ということになりませんかね。?

主には、隋や唐以前の上海や黄海の周辺の国々、朝鮮半島からの移民で、最終氷期の7~1万年くらい遡ると、サハリンからの移動も少なくなかったはずですけど・・

ルーツですね~。

黒潮や数多くの火山活動の影響で、国内某所とても温かかく、雨も良く降り、動植物も豊富で暮らし易い場所が多かったハズなんです。

氷期は、陸続きなので移動に大きな船も必要なかったんですよね、たぶん。


その船と云うと
倭国は島国なのに船の歴史もハッキリしていません。弥生期の船の土偶や土器に描かれた船くらいは残っている程度。具体的には縄文丸と安宅船くらいはわかったけど、瀬戸内海でダウ船が使われていたかどうかなどまだ不明な事も少なくない。

関門海峡って人工の運河ではないかという説もありまして、じゃ何時作られたのよって事ですが・・、遣隋使の時代(6世紀後半~7世紀初旬)、天津市では大運河を開通させていますから~


また "白村江の戦い" の話を聞く限りでは、遣隋使の頃には、木造の軍船を数千隻は維持していたのではないかとの予測もあるから、それ以前なのは間違いないのですけど・・

神武東征の際にも1000隻余りの軍船で南港目指してますよね。紀元前660年です。操船術、航海術もかなりのものだった筈です。

これって日向の国をもぬけの殻にして、というのは考え難いから、既に九州全域は従えていたと考えるべきですけど、太平洋側を伊勢方面へ進まず、なぜか、日向 → 国東半島 → 下関 → 山口 → 周防 →→→ 南港 のルートらしい。

だとすればですが

鳴門付近が、勢力も含め難関なのを知っていた事になる分けだけど、既に中・四国も支配していたのかもって考えると、西日本の大半は従えていたとすれば、この時期に、1世紀くらい費やして関門海峡が造られた可能性は検討の余地あるのかも

大陸との交流もあったとすれば、地中海文明みたいに海上貿易の繋がりは必要なので古代、船はいろんな用途で重要な役割を果たしていた事になる。ただ日向の国以外にも、出雲やその東側の葦武山から神武東征がはじまったという説もある。

・・で、高天原って何処にあったんだろうか!!
天津(てんしん)の事ではないのかな?

古墳分野では "896の聖域" って呼ばれているらしいですけど、古文書などの歴史資料からも、様々な事情で、今もって公開できない部分も沢山あるのでしょう~。邪馬台国に関してもそうかなって・・
nice!(3)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

忽那諸島の縄文人 [諸島の謎々]

台風10号の影響で、結構、雨降りましたけど・・
https://petamun.blog.so-net.ne.jp/2019-06-20-1
https://petamun.blog.so-net.ne.jp/2019-06-18
https://petamun.blog.so-net.ne.jp/2019-06-07
https://petamun.blog.so-net.ne.jp/2019-05-18

↑ 過去ログ参考 ↑



まずは、崖面の土製管ですが・・

高杯の脚.JPG
本日、土器の様子を見に行ってみると、やはり崩れ落ちていた。見えていた部分は、今回の豪雨で、もう原型もなくなりましたが、実は、土製管ではなくて、高杯形土器とその脚部だとの予想で、例の櫛珠円底土器にしてもその関係ではないかと・・

予想以上に、もろくて、1万年前頃の縄文土器ではないかとの予測です。

忽那諸島_貝塚発見続き.JPG
畑の奥でも、やはり貝殻何個も落ちていました。

縄文土器に円形型.JPG
貝殻と一緒に 6cm厚くらいある厚型土器の破片も落ちていました。円形の型が見えます。これ、裏側が湾曲しているので、底ではなくて、たぶん側面模様だと思うけど、縄文~弥生時代にこんなダイヤモンドリング描けていたんだね~、こんな小さな離島で

・・月輪(つきわ)家紋の原型なのかも

古代エジプトあたりでは、昼間が太陽神で、夜は月が闇へいざなう神という事で、要は巡礼の導きって感じのダークな神を表すものだと思うけど、これも神事や祭事や儀式に使われていたものの可能性もあると思える。


 PS : 思いついたので一句
   西風を 逃す賜れよ 梅の花 
           from うっぴぃ~



例の櫛珠円底土器(櫛目紋土器)も、今回の雨で、かなり露出してきていますけど、やはり口が開いていないように見えている。

底は丸いし、古い感じの割りに、超整っているしでかなり不思議なのですが、平安時代に半島で作られた縄文レプリカではないかとの予測してますが・・

神道の祭祀(さいし)用の品々ではないかと思えてきてるのですが、朝鮮半島から東へ(出雲→防予諸島→伊予の国)経由で文化が伝播したという重要な手がかりが、ここら辺りに沢山眠っているに違いないです。


そのうち人骨とか出てきて、DNA鑑定で、ご先祖だって事にでもなったら凄いけどね~(笑;)。
nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

茶器の破片かな? [諸島の謎々]

これも昨(2018年)年、夏の豪雨災害の痕跡ですけど・・

天谷_茶器_破片03.JPG
災害土砂を一次仮置きしていた天谷小学校グランドで、例の釉薬が施された土器と一緒に発見していた破片です。

参考 : 厚型土器破片の釉薬
https://petamun.blog.so-net.ne.jp/2019-07-09


天谷_茶器_破片04.JPG朱泥や紫砂で作られている感じなので日本のものでは無さそうな予感。


天谷_茶器_破片05.JPGこれだけなので何とも言いがたいけど、感じからして中国の茶器ですよね~

天谷_茶器_破片06.JPGそのあたりでサーチしていると 中国宜興(ぎこう) っぽい感じなことが分かる。古いものでは唐の時代に遡るとか

天谷_茶器_破片07.JPG
急須かな。? 茶道具だとは思うのですが、確かな事は分からない。

朱泥や紫砂で作られている茶器は、お茶の風味を益して美味しくなるらしいです。

中国宜興の茶器は今現在も作られているようで、お眼鏡に合うものがあれば、買ってみたい気持ちでいっぱいでした。
nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

ココヤシの実と縄文丸 [諸島の謎々]

ちょっと思い出してますが、子供の頃は、お隣地区の海岸で、ココヤシの実が漂着しているのを時々見ることがありまして・・

清掃船の影響だと思うけど、最近は、漂流物も以前よりはかなり少なくて、ココヤシの実なんて、30数年以上は見てないけど~

ココヤシは、そうやって分布域を広げる植物だということで、調べてみると、ポリネシアや熱帯アジアが原産とあった。現在では、熱帯全域(回帰線帯のエリア)での分布が確認されている様子もある。

何処から流れて来たかに関しては、中予、瀬戸内海にもっとも近い分布を調べてみると、東南アジアになるけど、大人の頭より大きな感じだったの覚えてまして、北へ移動するほど実も小さくなるらしいから、ニュージーランドあたりの可能性も十分にありえるね。

後は海流、環流ですけど

忽那諸島の縄文丸1号.JPG
この島でも丸太の縄文丸(文化センター展示品)が発見されてるけど、近海の環流と分流が分かれば、縄文船の伝播ルートの模索にも繋がってくるかもしれないね。

尤も縄文丸自体は、どう見ても海岸漁用なので、せめてダウ船くらいの、風に乗れるタイプのものでないと、長距離移動は難しい~。

そもそも伝播したとしても、島から島へと時を経て広がったもので、人を乗せた状態で、単独長距離旅行は到底無理ですから、それでも遠方のものが発見されたとすれば、それは遭難で船だけが流れ着いたと考えるべきなのだと思うけど・・
nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

斉之神(日之浦)の遺跡 [諸島の謎々]

一昨日は、10年か? ぶりくらいで斉之神へ向かってみた。

五輪塔の一部.JPG
平安時代を思わせるような五輪塔かな? 丸っぽいから水輪だと思う。御札(御祓大麻:おはらいおおぬさ)もあるようだし、何か弔うか、祀ってある感じですかね~。


ここが小野小町の噂のもとなのでは? って疑ってるのですが・・

五輪塔の一部02.JPG
平安~鎌倉頃に使われていた凝灰岩だと思うけど、1000年近くも経過すると老朽化もハンパ無い様子~

小町が詠んだ辞世の句を刻んだ石碑は土砂崩れで行方不明とされているけど、このあたりの何処かに埋ったままなのか? この種類の石だと、もう文字は読めないだろうな


周辺の大半は畑ですが、昨年の土砂崩れ被害の傾斜地でもあり、痕跡もそのままな様子だった。


余談ですけど、この地区の現在の天満神社(お太夫さんが亡くなられて後)は、隣地区の五十鈴(いすず)神社の神主さんへ、管理移行されているという事でしたが、創建も分からないままなのですが、祠くらいの神社時代も別の場所であるらしいという事で・・、参考資料みていると、同列の 綱敷天満神社 (今治市)の記載に、「徳川吉宗が八代将軍となって以降、1720年6月に、伊予松山藩主松平定英の命により社殿が築かれた。」とありまして、こちらも、その頃ではないかとの予測してます。ただ例の逆さで埋ってる玉垣は嘉永2年(1849)だったので、災害の後、現在の場所に新しく立て替えられたのだと考えついた。

※道真公は、舵のある船団で海路を大宰府へ向かわれている事や、その頃既に漁業に魚網が使われている事も分かった。



PS : 200万画素時代に撮影している、この五輪塔のPhotoが何処かにあるハズなので、出てきたらupする予定です。
nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

郡司は存在してたか [諸島の謎々]

そういえば思い出してますが、移転してきた頃、50年くらい前かな? この地区にも、役場があったんですよ~。今は、電話が置いてあるだけの駐在所だけですが・・。資料によりますと1963年に島東部と統合して行政としては無能化されてる。粟井から宇和間までが、ひとつの自治区だったみたい。

では、それは何時からかと言うと

データベース『えひめの記憶』
三、伊予国人の諸相
1.忽那諸島の海賊衆

のページ、1405(応永12年)を境に、忽那氏は、忽那島西浦上分の地頭職を与えられているとあった。東部ではなくて西部なんですよね。

それ以前は、能島村上氏(海賊衆)が忽那島西部を所管しているらしい。ともに伊予の国、河野氏の支配圏の頃です。

この冒頭に、土着の国人(くにゅうど)が海賊衆を担っているとあるのですが、鎌倉・室町以前は、地頭が土着の国人だと考えるべきか、更にさかのぼれば奈良~平安期の郡司もあったと考えるべきか

・・彼らが海賊衆を先導してたと考えて良いようですよね~。もちろん海上利権といいますか、領土として海域にも支配力を広め、海上交通の利便性に着目していた証だと思う。

この運びだと、純友の名もあがってきても良いはずなんだけどね!! 付き合いもあっただろうし、何か県にとっての不都合なのか、史実の隠蔽なのかも

ここまで、こちらの謎のコーナーでブログにしてきたメモ書き程度の内容でしたが、既に松山市ではないのかも(汗;)、ここから先は今治市のようだな~


国内を統一したのは豊臣秀吉、その礎を作ったのが織田信長という歴史ではありますけど、武家政治が始まる遥か以前、1世紀には既に皇族家が支配していたんだよね~、この国(笑;)。

忽那諸島の謎でしたー\(-o-;)/


PS : 西地区には、獄舎の門の木とされている センダン、樹齢100年以上の巨木が何本かあるけど、コレが関わりあるのかも・・

夏なので、もうひとつおまけで
この地区で首無しの馬が走るというリアルな夢を何度も見るというのを聞いたことがあります。その方は、もうかなり以前にご高齢で亡くなられてますけどね~。


nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

重要文化財クラスなのかも [諸島の謎々]

例の出土の件ですけど、神社や郡司とかの祭事用ではなくて、ホンモノ、いわゆるニギヤハヒ絡みの土器だとすると、重要文化財級の扱いの可能性もありえてるのかなとは思えてきているのですが・・

神話時代の事で紀元前の事だと思ってたのですが、神武天皇の話、マンガやゲームやドラマとかですかね? 日本書紀とか古事記とかですけど、1世紀頃の事のように記載しているものも多そうでして、2000年前後ならば状況次第では、ベンガラ塗装も残っている事も在りえるのではないかと至ってますが


雨にも負けず風にも負けずだね~。
https://petamun.blog.so-net.ne.jp/2019-06-20-1
本日の櫛珠ちゃん!! ※台風通過後(略)

一昨日の夜間は、レベル4の警告も出てたけど、かろうじて豪雨災害は避けられたようで、10mm/時を超えたのは1~2時間くらいだと思う。

で、皇族の配島流の地だという件ですけど、何時の頃からかは分かり兼ねますが、東京国立博物館に所蔵されているという、三種の神器の出ている古墳がある以上は、その頃から支配地域で主従の繋がりはあると考えても間違いではないとは思えてまして

藤原道真公を祀る各地区の神社にしても、藤原純友が瀬戸内海の海賊をまとめていた時期にしても、この距離で、周防や忽那島、能島・因島・来島の海賊衆が関係していないはずはありませんから、しかし記録がないというのは、未だに知られたくない黒歴史があり、隠蔽されている部分もあるのだと疑わない分けには、何も始まらないですし、この島の忽那文書以前の歴史も開かないまま・・


義賊・石川五右衛門(文禄3年8月24日※1594年10月8日)って、戦国期、安土桃山時代の盗賊の頭目がいましたが、この人物の最後は秀吉の家来に捕らえられて、一家全員が、磔や釜茹刑にされてしまいますけど、戦国期に武家屋敷に忍び込み財宝を盗めるものは忍者しかいないよね。彼は、伊賀者という説も既に整っていて、信長に続き、秀吉の動向も殺したいほど疎ましかったのは、当時の朝廷内部(関白の座を奪われたもの)ではないかと思えてまして、そんな史実は何処にもある分けは無いし、秀吉が知ったとしても史実には残せていない可能性ある。天正13年※1585年、日本で初の武家関白就任ですからね~。

甲賀も伊賀も特命で雇われ、特務的な内偵や工作をしていた影の者ですから、簡単には口は割らないですし、今の社会に至ってもその精神は受け継がれている感じもあり、ソースは明かさない事は、業継続の原則的な約定となってる節もある。関わってはいけない組織が関わっている場合は、隠蔽も十分に在りえるという話で、どうすれば丸く出来るのか、事態を治められるのかが最大の問題。


藤原純友の五輪塔では.JPG
例えば、純友の乱も最後には、軍資金の打診か何かで大宰府へ攻め込んでますが、そのような事がなければ、太宰府天満宮が現在も現存できているかどうかは疑わしいところで、写真はH12年の出土品という事で展示されてますが、もしこれが、純友親子の五輪塔であれば、かなり後に建立されたとしても、国内最古という程の古さは感じさせてくれてる。1段目と3段目に謎の穴の加工痕がありDNAが格納されてたのではないかとの予測。梵字も消えてるようだけど、X線検査で何か出てくれば、時代の特定に役立つのかも。

純友の動向には近衛家としての別の目的もあったとは思えているのですが、瀬戸内海の海賊衆を取りまとめているうちに、朝廷や大宰府内部に不穏がある事を突き止めた純友は乱を起こしたが、その後、追い詰められたか、配島流かで、ゆかりのあるこの島で生涯を終えたとすれば、橘氏か太宰府か北家の関係者かによって供養されたのかもって思うこともある。

しかし、震度1~2でも倒れて壊れそうなのに「さわらないでくださいテープ張りだけ」ってないよね。!! 大きさからして、かなりの人物のものには相違ないですし、五輪塔は列記とした墓ですし。こんな形で「室内展示ってどうなのよ」って思うのは自分だけ?

(略)

このパワースポットから農道を少し登ると、かなり古そうな凝灰岩の野面の石垣が数mの残ってるのですが、実は、そこは鎌倉の郡司が置かれてたのではないかと疑ってまして、市に統合されるまでは温泉郡でしたからね。中国や朝鮮半島、奈良や京都から旅で訪れると、この島の先には権現温泉や道後温泉もあるし別府もある。古代、カルデラを形成していたとすると、温泉があった可能性もあるし、あと、地名や住民氏名や職業、出土の透かし瓦や、例の櫛珠ちゃんにしても、祭事用にレプリカを作って保管していたのではないかとか、で襲撃で焼け落ちたか、土砂崩れに巻き込まれたかして、何百年も行方不明という事に・・。言い伝えも途切れた分けですよね~。


ちなみにうちの先祖は、泰の山城の石垣を積んでた人物かも知れないし、隣家の先祖は、その郡司の末裔で、築城を指揮していた棟梁なのかも知れませんし、天満宮の宮司の先祖は朝廷か幕府からの使者だったのかも知れないし、以前も愚痴ってますが、島内でもこの地区だけでして、謎は多いし、何も残ってない分けで(笑;)・・、純友時代か、それ以前からの戒厳令ですかね? 忽那水軍の土台を築いたのも純友に違いないと思えてるし、この地域で匿ってた事もあるのかも

伝え残すことが困難な時代に、石に刻む事もそうですが、何らかの形に残したりは普通ですよね。しかし暗躍が渦巻いてたりすると、至らない氏名や地名、句や唄を詠んでも、やはりトラブルの元で、消されたりも少なくなかった時代が歴史ですよ~。

吹く風、流れる水の如く・・、風水って、そういう歴史背景の現実から語られる術のひとつなのかも~

この島わ? っていうと、大里(おおり)山を中心に風水の八角形を重ねると見えてくるものもあったりして、平城京や平安京が村里作りのモデルではないかと思いあたりまして・・。周囲山麓に人々の多い集落があり、泰の山側には居ない分けではありませんが、また奈良、平安時代頃から今の地区名だったかどうか、境界が何処にあったのかも、まだ分かりませんが、知られていない古い歴史がある事だけは、今回、出土の土器からも計り知れる現状で


島の東側は伊予の国側で、大きな湾、入り江に恵まれているので普通に暮らすには適していますが、古い歴史は、出雲・周防国側から伝播してきたとすると、島の西側が古代から栄えてきていると考える事もできまして、西側は大里山の峰々から成る谷地形も多く、静かに隠れて暮らすには向いていたように思います。


時代が飛び回るけど、紫宸殿の "左京の桜・右京の橘"とは、左近・右近はともに衛府です。藤原氏と橘氏ですよね。それぞれ役目はあったと思いますが、護衛とかを務とする役組織のように思う。で、それの思想モデルなのですが、邪馬台国をセンターとして蝦夷を見た時の、瀬戸内海の本州側と、四国側を示唆しているのではないかと考える事もありまして

※略


海賊していた頃に風早衆の船を何処に隠していたかも謎のひとつで、シロやクダコやカイコやマルコには連絡網も置かれていたはずですけど、津和地や怒和島は適当な場所なのかもって思う。村上水軍の船は展示もされているけど、忽那水軍の船はどんなのだったのかベールに包まれたまま。でも縄文の丸木舟は出土していましたわ。今も文化センターに展示してある様子。杉かな? 何時頃の船か科学的に知る方法とかあれば良いけどね~。


島の不思議は、古代から続くこの特有の支配圏の移り変わりが関係しているのだろうと検討しているところですが、地形にしても人々の暮らしにしても飛鳥時代頃から、地震や土砂崩れの影響は多々あれど、農道や開拓農地以外は、さほど、殆ど、変わっていないとの憶測もある。


"雨降らば地固まる" の意味も少し理解できた気もしてる最中ですが、今回の地区は、秘密の園なんだと思うしかないな(汗;)

nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

天谷の思い出 [諸島の謎々]

例の小学校の「天谷」という名称のいわれですけど、古代から支配エリアだったことや、平安時代以降、天皇家系の配流の地となっていたからという説に往きついてますけど・・


平成20年の廃校時の記録によりますと
明治7年には各地区に寺小屋のような学び舎が存在していて、その後、統合と改名を何度か経て、昭和16年に、西中島村立 天谷 国民学校と、この時はじめて天谷という名称が使われていました。


忽那文書のあった吉木地区ですが、大里(おおり)山から連なる峰々の谷地形に位置しているので、以前に使われていた日進館(吉木)や吉木尋常小学校となると、他の地区の手前、不都合もあるので、天の谷でアマヤとして統合したのではないかと思えてます。

www.matsuyama-edu.ed.jp/~s-amaya/01gakkou%20syoukai/gakkou%20syoukai.html
※詳しくは、こちら学校紹介のページを参照ください。


実は、ここでも悪夢が思い出されていますが
転校して暫くして、水泳大会があったのですが、500mだったと思うけど、小学校の西側に海が広がってまして、間隔125mくらいの波止場が2つあり、そこで通常の水泳の授業が行われていたのですが

それは記憶にあたらしい、夏休み明けの曇りの日でした。
2往復ですよ~。

海水の冷たさと、潮の干満差、環流の影響による離岸流など複雑な流れが発生しているし、それも数分単位で絶え間なく変化している状況。

想像できるでしょうか?
カブガフ潮は飲むし、向かい流になると、まったく前に進めなくて疲労は限界超えているし、途中、何度も、死に掛けてる(笑;)。

今考えると、大人教師たちの配慮だったのか、一番内側の流れの穏やかなポジョンだったようだけど、プールで 25mも完泳できない子供が、ドゲから更に何十分も遅れて、息絶えつつも、なんとかゴール

外側だったら、たぶん、死亡事故は確実に発生していると疑わない(汗;)。

海水って比重による浮力が、結構、凄いんですよね~。潮飲んでも、あわてず、肺に空気さえ貯めてれば、体に力を入れ過ぎなければ、中々、沈まないんですわ。

最後の折り返しは、ノーズだけ海面すれすれの犬掻き状態です。
これって ↑ 溺れてるんだと思うけどね~。

涙と鼻水と脱力感と震えがきてて、身体は薄紫色になってて、同級生や教職員みんなから笑われて、・・その後、熱い生姜湯たった1杯で黙らされてた記憶(笑;)。

生徒数はバカみたいに多かった頃だし、教職員にしろ、この島の海で人命救助が適切に行える人材は少なかったハズで、診療所はあっても、救急救命の知識や設備は整っていない時代ですよね~。


4年か5年の頃だったと思うけど、天谷の悪夢ですけど、「そういう時代よ」の一言で許されていた教育現場だったんでしょうね。
nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

今度は化石か ? [諸島の謎々]

忽那諸島、本島南側 (神浦の西端から宇和間南端までの間) は、ほぼ畑が広がっていて、人が住んでいる様子はないエリアなのですが、それは、只たんに、日当たりが良好で、背に峰々が繋がっているので、人が住むより植物に良いからなのか、分からないのですけど・・


ダッシュ島の件ですが、
"その昔、由利島が二神島と陸続きで、巨大地震で、海面下へ35mほど沈下し1000軒ほどが水没し、今の状態だ" という部分について・・

地図を見ていると、その位置から数kmの対岸に当たりますから、昔は、人も多く住んでいたのではないかと、・・由利島の伝説は、実は、長浜の伝説が置き換えられたのではないかと思う事もありまして、・・地価評価額が下がるとかの理由ですかね ?! 

問題は、「その昔」が、いったい、何時頃の事なのかと云うことですけど・・


瀬戸内海は、温暖化による海進によって出来た内海で、この島の直ぐ大阪南港側は、ほぼ低地の陸地だった頃もあり、今治の沖合いには、琵琶湖より大きな湖が広がっていた頃があるという説があります。

この島には、小さな火口(マグマや煙は出でいない)があるし、溶岩石で出来ている黒磯という磯もあるし、この島を中心に、周りの島々とカルデラを形成していたのではないかと思う節も伺えていますが

海進・海退を考える上で、瀬戸内海の海水を除いた地形図を想定してみると、山口県~周防島~忽那諸島~愛媛県高浜までは陸で繋がっていた時代もあり、その付近には、南海トラフや四国中央構造線と、直交する巨大な断層が隠されていそうな予感もしてまして

もっとも近場では、安政の大地震の話は以前もしていますが、その時は島の西エリアも、大きな地震や津波被害があったように伝えられていました。まさにその発生ポイントが、この断層ではないかと



おまけ : 7月初旬のそこそこ降った翌日
例の縄文土器が出てきている場所で、たまたま鍾乳石のような奇妙な石を見つけました。
古代サンゴの化石 発見かも.JPG
この石、古代オブジェみたいで、右側を底にしてちゃんと立位するのですが、見た感じ、石器で硬度の試し加工がされてるような傷があります。

土の中から出てきているけど、長く海中にあった感じもあるし、洞窟の中で形成された鍾乳石かもしれないし、年代も含め詳しいことは、個人では分かりませんが

シルル紀~デボン紀のハチノスサンゴ、恐竜期以前の古代サンゴか。
沼サンゴ、イシサンゴなど


・・これが発見された経緯を予測していると、魚介類を取る為に、縄文弥生人は、海に潜ってた可能性もある分けでして、もちろん漁師の網にかかって上げられたものの可能性もありますが、いずれにしても、この地域のものであれば、数億年前には、この海でもサンゴが生息していた証明になるのかも。

※ここいらでも1世紀のポンペイみたいな惨事があっのかもだね、ミケランジェロ!!




やっぱ、自分、なんか、持ってるよね~!!

昨年の豪雨災害の後、例の逆さで埋ってる玉垣巨石を見つけてからというもの、不思議な事が続く毎日でしてぇ~(笑;)。

※そういえば、この付近の山畑の所有者が変わったらしい。近く埋蔵史跡に関する動きがあるのかも
nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

忽那諸島で貝塚発見(証) !! [諸島の謎々]

https://petamun.blog.so-net.ne.jp/2006-03-17
という分けでして、先日迄のこちらナゾナゾのコーナーですが、14年以上前の「貝塚 みつけたかも・・」が、やっとホンモノだったと証明できたのかも・・

島の近くでは、ダッシュ・ロケ地になってた由利島で、発見の報告はあるにはあるのですが、こちら忽那諸島(本島)では、たぶん、はじめてではないかと思うけど、山を掘り返す分けにも行かないから、当分は、このままそっとして置くしかないのですよね~

※そのうち、近い将来? 豪雨や南海地震で土砂崩れとかあれば見つかるのだとは思えている。


https://petamun.blog.so-net.ne.jp/2019-06-18
こちらは山肌からポロポロと崩れてきてるのですが、5500年も前の縄文土器から、解明される事も沢山あるんだという事は今回分かった気がしてまして、瀬戸内海の半分くらいは陸地だった頃の話ですが、海抜が40~50m低いければ島の周辺は汽水域になる。

今現在も沈降性の島ではあるけど、いつの時代か35m程沈下しているという経緯もあるらしい。由利島水没伝説よりもっと以前に、由利と二神島とは陸続きだったという説もあるし・・

放射線の半減期測定とかやってみなければ、時代が、やや漠然とし過ぎている結果でしたが、数万年前の土器だとすれば、具体性も増してくるので、この話はオープンにして瀬戸内海全域はもとより、西日本全域で、まとめる必要もありそうな予測です。


以下は瀬戸の海底図で参考にさせて頂いたページ
ttp://r1rawd.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/500md11-5201.html
瀬戸内海の、3D海底地形図



https://petamun.blog.so-net.ne.jp/2019-06-20-1
しかし、もうひとつの問題、Oh! PARTS こちらはどうですかね~ ?!

たぶん平安~鎌倉頃の、天満神社の祭事用に作ったレプリカの須恵器だとは思うのですが、もしホンモノならば1万年ほど前のものです。

尾道ルートあるから葦獄山は望めるので神武天皇や、天照国照彦火明櫛甕玉饒速日命(ニギハヤヒノミコト)の存在を示す土器、邪馬台国の頃の支配圏を示す手がかりにもなり得るのかもという期待もあるけど、この神話は2700年くらい前の話という事なので、これも時代に誤差がある。

・・価値ありそうな予感もしてきたわ~(笑;)。




おまけ : わがままジュリエット 歌ってみたMIX

史上もっとも遅いということでしたが、四国もやっと梅雨入り宣言。

もう台風来てるらしいし、家の回り、急傾斜 崩落危険地域に指定されてしまっているので、崖崩れ要注意なんです。

これからハードになりそうだな・・
nice!(4)  コメント(2) 
共通テーマ:日記・雑感

ドキドキー 櫛珠ゃ~ん! [諸島の謎々]

だいぶ霧も晴れてきてるので、ここらで仕切り直しです。

と云うことでマダマダ探索中なのですが、未だ触れないという土器・・
丸底は、縄文早期(1万年~6000年前)という事らしい。

これ ↓ シロート目にもそうは見えないです~。
櫛珠土器のレプリカ発見.jpg
仕上げ塗りか上塗りかの殆どは剥げてしまっているのかな? 釉薬? の垂れもあるようだし、それほど綺麗には見えてませんが、褐色はベンガラですかね。? を塗り重ねているような感じで、更に二枚貝の成長線のようなきめ細かな櫛文が施されている。

そしてトドメは、口が開いていないように見えている部分。赤土粘土、ヘラで均され面取りまで施され、ロクロで廻したか、型にはめて作ったかのようなギョクというに相応しい小型成形

※ちなみに面取り、面切り加工は、柱や家具の角の加工法のひとつで、607年に建造された法隆寺(推古天皇と聖徳太子が建立した寺院)の柱にみられるのが国内最古らしいけど、石器時代に石の角を研ぎ落とすというような技法で既に存在していた可能性もありそうな予感です。

櫛珠土器のレプリカ発見(丸底).jpg
第一印象は、その色から、昭和のタコツボ(未使用品)という感じだったけど、丸い底から土器? そして劣化をまったく感じさせないフォルム、レプリカかな? って事に。凛々しい容姿かたち。

https://petamun.blog.so-net.ne.jp/2019-06-18
↑ 先日の厚型式の縄文土器の破片も、外側のアール面は、七輪(しちりん)と間違えるほど、不陸の無さそうな正確な円弧だったので、このあたりで組織的にがん作とかの取り扱いがあったのかなぁ~という印象も無くもなくて、疑問はまだ消えていないのですが

土師器、須恵器の時代の復元品でなければ、江戸時代か、明治時代かのレプリカなんでしょうかね ? 或は、古い瓦やナイロン、瓶なども近くに埋ってるようなので、農道作成か宅地造成時に、既に発見されていて、本物とすり替えられているのかなって思えてる。


古代の中国や朝鮮半島で作られたものならば、レベルは段違いなはずですので、ホンモノの櫛目文土器かもという期待は無くもないのですが、それだと、ほれ、遣隋使や遣唐使もやや昔の事ですし(永住組みや密偵も居たのかも)、大宰府もあった頃なら、直便はなくても、リレーする商船はその後も行きかってたんだろうから

結局、また!! 倭寇の話のほうへ行ってしまうと、何かと不都合も(爆;)~

平安時代に豊後水道で海賊してたのは、宇和海の日振に陣を置く藤原純友という事でしたけど、門司も近いし、国東半島、宇佐にも近いし、大陸へ行きかう外国船を狙うには、最も硬いエリアで、「東風吹かば、匂いおこせよ、梅の花・・」的に、政治的背景は強そうだけどね。金比羅の「行きはよいよい帰りは怖い」なんて唄もあるぐらい~


彼は、藤原北家で、道真公の作った大宰府に親子二代で勤めていたという経緯があるらしい。元々は海賊を抑制する任に就いていたのだとか、いつの間か、ミイラ取りがミイラに~?

ここは、周防国と伊予の国の板ばさみの島ですから当時どうやって治安を維持してたのかなど分からない事が多い。飛鳥・奈良・平安期には、国府や国司、郡司も置かれていたはずですし、鎌倉・室町期には守護や地頭も置かれていたはず。

純友が乱に至るまでの間は、全盛期、瀬戸内海全域へ勢力圏が広まってたらしく、逃げ延びた従属たちも少なくない筈なのですが、うちも同じ家紋だし祖父以前の先祖がこの地で何をしていたのかが全く分からないんですよね~(笑;)。ご近所も同様だと思う(爆;)。そしてこの地区だけに限って歴史資料・史跡情報が少な過ぎてるのはなぜか? 

木を隠すには森の中っても言うし~(汗;)ね。この地に辿り着いて隠れていても、隠していても、何の不思議も無いのだけど、古三津には乳母がいて、墓石まであるとかないとか、このあたりで伊予の国勤めの橘氏に捕らえられて獄中死しているという話もあるけどね。どうかな?!

そのイキサツは、また改めて考えるとして、話戻しますが・・


ホンモノならば、口は小さくて別に蓋もあり、骨壺でなければ、毒矢ポットか、釣り針とかを仕舞う為に使っていた容器だって考えてみると、ちょうど良い大きさなのかも。ってか、戦前、皇室でも探していたとすると、特務とかで、ホンモノと置き換えられてるという説も・・

直ぐ横からは、サザエの殻が何個か出てきていまして、それはリンゴの芯だけが残る感じになっていて、かなり老朽化してそうなのですが、1万年前のものかどうかは不明としか言いようがない。炭素年代測定法とかでないと年代までは分かりそうもないですよね~\(-o-;)/。
このあたりが、個人の限界集落っす。
聞くと、地権者の協力も得られていないようで難色を示された。


□ 文化庁の関連ページ
ttp://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkazai/shokai/maizo.html
後は、テレビ局を頼るか、考古館か、文科省か・・
市にはお知らせだけは済ませているのですが、発掘調査をするという話にまでは至っていなくて

https://petamun.blog.so-net.ne.jp/2019-06-18
櫛玉に引っ掛りまして、↑ 一昨日の件ですけど、話を膨らませついでに・・
ニギヤハヒ本人か、の妻、瀬織津姫の墳墓か~
浪速って聞いてるけど、長髄彦(ナガスネヒコ)が眠っているとか~

神話の神武天皇とニギヤハヒがこの地域だとすると、この山、自体が古墳の可能性もあるという分けでして~。何年か前に出土の、今、行方不明の石群

 盛り過ぎかー\(笑;)/


じゃこういうのはどうでしょう。
島の北端に歌崎というのがありまして、斎灘(いつきなだ)に面していますが、瀬戸を行き交う船々には、潮待ち・風待ちというのがあり、当時はまだヨット的には進み難くかったはずで、追い風、追い潮に乗るのが常套だろうと・・

正式な斎宮制度(7~14世紀まで続いた)成立以降の斎宮も少なからずの人数で、起源はというと、やはり古事記や日本書紀の神話ということで、以前からあるにはあった事だという認識。震源的な災いの種 男女の仲にありですか、采女伝説、斎宮女御なんだね。余談ですが、そのリストにある名は、良い運命で人生を過せないという噂さもある。勤めに恵まれないとか、結婚できないとか、別れ易いとか、不幸を背負う星の名なんだろうか~。


古墳~平安期の頃に作らせた幣物の復元品(レプリカ)だとすると、原型を留めている理由にも思い当たる。

歌崎の由来は、今治方面20kmほどのところにある斎島という事でしたが、「斎内親王から幣物料を下賜した(配流記念の土産)」のが、その斎島で、潮待ちをしたのが、こちらの島だとすると、西から蝦夷に向かっていたと考えられるのですが?

或は斎灘の島々はすべて斎島だった頃の話か、まぁ分からないのだけど、その途中で墳墓に御参りをして御供をしたとも、今だ 小野小町 が立ち寄り歌を読んだ という発想には繋がらないまま・・


 やっぱ 盛り過ぎかー\(笑;)/


PS :
一昨日の透かしの引き両の瓦と一緒に出てきているので、守護や地頭の家宝として置かれていたものと云う説なんかも検討している最中。

邪馬台国の支配下より、支配権が変わっても、島要衝は継続して置かれていたと推測するべきかなぁっても思うのですが、瀬戸内海なので、忽那文書とかが最古と言うことなので・・

でも、鏡・剣・勾玉、他数点の神器とかは、既に島内の古墳から発見されてまして、東京国立博物館に寄託されてる様子。
nice!(2)  コメント(3) 
共通テーマ:日記・雑感

畑の奥から七輪? 更新。やばーぃ!! [諸島の謎々]

本日の畑の奥の崖面です。

https://petamun.blog.so-net.ne.jp/2019-06-07
↑ 一昨日の雨の翌日から、何かあるのは分かっていたのですが・・

0618 七輪かな.JPG
これは、相当に分厚い感じと、土は、珪藻土っぽいので、たぶん七輪ですよね~。

これも、土器なのかと思ってたけど、紛らわしいのは、まぁ、そうなんだけど、しかし、ものは、相当に古そうな予感ですょ。

軽くみて、明治・大正って感じですかね~。
↑ ちょっと盛ってしまってるカモ

上に何もない林の崖面から、いったい何が出てくるのだろうー(笑;) 
このへん、変~\(-o-;)/

例の 弥生土器らしきは、次の 15mm/時 も越える雨で落下するとの予測あり。
一応、お知らせしとくかな~

回答 : 地元・文化センターの担当者は、昨年で定年退職されたとかで取り扱い自体が現在無くなっているらしいっす。

過去に何度か見学行ったことあるけど、市の考古館になりそうですかね~


//// 0619 PS : ///////////////
先ほど洗ってみたところ、櫛目文(縄文)らしきが浮き上がってきてます。
七輪土器20190619.JPG
これは、たぶん土器やでぇ~ \(-o-;)/
やっぱ、パワースポットなんだと思えてきたわー。
とうとう出てしまったぁーね!! ・・これから、どうしょう~(笑;)

今、考古館はイベント中らしいのですが、連絡してみるか・・。大雨の前に、妙な壺だけでも救出するか、・・判断悩むねぇ。


PS 追加発見です。:
七輪土器 赤と青 顔料.JPG
縄文~弥生時代、裸体に塗っていた日焼け止めと思われる青と赤の顔料(粘土)が内側2層に使用されているサンドイッチ構造?。水を溜めていた花瓶や、沸かしていた瓶的なものなのかも。

倭寇や、瀬戸内海の海賊衆、赤鬼・青鬼伝説が暴かれそうですよね~。陸の支配者 豪族 河野氏 と縁が築けていたのも、そんな暗躍があったからなのかも ?!

七輪土器 貝殻の化石.JPG
こちらは2~3mm以下ですが、二枚貝の幼生貝殻が土器の粘土の中に見えます。土器の製作時に海砂を混ぜているか、粘土の中に閉じ込められていた十数万年前のものかのいずれかだと思う。

しかし分厚いです。6cmはありそう。5000年以上前、縄文中期のものだと思うけど、いくら検索しても、もっか似たような土器は見つからない。壺も同様。国内で見た事もないような土器ばかり見ていたので、見た事もないようなものを作る事ができてたのかも知れません。



この山が大きな古墳だとすると、古代の有力者? ・・掘り出し直後においてあった行方不明の石群も探さないとイケなさそうな予感してきた。

やや神話と逢わない部分もあるけど BC660年とされている神武天皇の東征やニギハヤヒの存在も疑ってみる良い機会になるのかも・・
nice!(3)  コメント(2) 
共通テーマ:日記・雑感

モシカシテモシカシテ [諸島の謎々]

2010年(寅年)に中島総合文化センターで「東京国立博物館里帰り展」が開催されていまして、その際の展示品などを紹介・監修した書籍が無料配布されているという事で、早速、読んでみました。

市の考古館のホムペから pdf も DLで可能
『忽那諸島の歴史を訪ねて』
ttp://www.cul-spo.or.jp/koukokan/information/kutuna_book.html
松山市 考古館 の DL ページです。


https://petamun.blog.so-net.ne.jp/2013-02-05
今更ながらですけど、↑ これらと、3ページ目の右上の石群ですけど、似てますよね~

正確な位置とか、他に出てきたものとかは知らないのですが、数日、経ってから石増えてきてたのでブログにしていたのですが・・


古墳のほうは、東京国立博物館により、古墳時代5~6世紀と推定されているようです。



https://petamun.blog.so-net.ne.jp/2019-06-10
一昨日の旧石器~新石器時代ではないかと思われる石も、近くでわあるのですが、実は古井戸を囲うように何個も並べてありまして・・これも似てるわー。


https://petamun.blog.so-net.ne.jp/archive/c316073-1
こちらの詳細不明な土器にしても、須恵器(縄文~弥生~古墳時代)だと思うのですが、ただ下は卵型で自立しない形、横縞の櫛目紋溝があり、口が開いていないように見えているのですが、もしも蓋があって、何処か別の場所に埋まってるとすると、骨壺なのかもって思ってみてる。

崖に埋まっている土師器や土製管のようなものも、やはり副葬品って事になるのかな?

バラバラに出てくるのって、時代が違うか、農道が作られた際に異動させられたものか、豪雨による土砂崩れか、大地震や大津波の痕跡なんだと行き着いた。



話し戻るけど
火葬は、天皇とか貴族や僧侶の一部では6世紀頃には行われていたそうですから、疑う余地はなくもない? 弥生時代(BC10世紀~3世紀中頃)に大陸から伝播したとか

東京国立博物館に寄託されているという古墳の上においてある瓦作りの小さな祠が同じなんですよね。随分後で作られたものだとは思うけど、こちらの地区には10個くらいはあるはず。・・小さな五輪塔も何個もあるんだよね~。

https://petamun.blog.so-net.ne.jp/2019-03-28-1
あと、この間の金比羅大権現様もこの地区でしかみていないから、何か邪馬台国や朝廷や幕府との関わりが遠い昔からあるのではないかと思ってみてる最中。

出土品かも.JPG
↑ 9年ほど前に隣地区の廃墟で見つけたもの。出土品かな?

ただ、pdf読んでみても、この地域だけ特に情報が無さ過ぎてる様子なので、ハイテク機器による調査とかしないと何も分からないのではないかとは思えてる。或は、古い時代から、そういった部外者の行動を拒絶し続けてきてた過去があるのかも知れないという、海べたの限界集落なのでしたが・・、基本、農道なので、山(柑橘畑)に入るな(登るな)というのは島全域で良く聞いてる話。

渡りの途中で休憩するオアシスなんだと思うけど、池に、オシドリカモとかいるんですよね。
nice!(2)  コメント(5) 
共通テーマ:日記・雑感

言われてみれば・・ [諸島の謎々]

言わてみれば、この石も不自然ですよねー。
邪馬台国時代の加工石.JPG
3~5世紀頃のものではないかと思えてる。

問題は、どうやって加工したか、何に使っていたものか? ですけどね~。

下の石は磨耗しているから、海岸で拾ってきたものか、もっと古い新石器時代の人工物(磨製)か・・

おまけ : 2019 ハイピスカス咲く.JPG
鉢植えのハイビスカスです。大きくなり過ぎの元株を枯らす前に、挿し木しておいたものです。裏庭の半日日陰の場所ですが蕾も沢山出来てる。

nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

スーパーパワースポットなのか!! [諸島の謎々]

関東はすっかり梅雨らしいけど、四国もそろそろ梅雨入り宣言ですかね~

昨夜は不意に降られてしまって、風も強かったようで、ペットボトルはあちこちに散乱してるわ、やっと出来たアロエベラの実(種)も、おこってしまってるわ~(今年もやっぱダメだったか~\(-o-;)/)。

朝は、庭が大騒動でした(汗;)。


という分けで、
このコーナーでやってる古代遺跡かな? の件ですけど、また行ってみると・・
透かし瓦06072019 出土.JPG
例の土管と見られる素焼の土器らしきのところですが・・

横から瓦みたいのが出てきてた。丸に2つか3つの引両紋 透かし瓦ですかね?
※2つだと鎌倉~室町時代の源氏~足利将軍家、或は織田家の家紋ですよね~。
3つだと伊達家の伊予の国の庶流家あたりかな?
もっとずーっと後の世の 藤堂高虎 絡みかな? この人物はヤバそう

ttp://www.ritoumeguri.com/experience/26428.php
↑ 参照ページです。
道真との関わりは平安時代なので、忽那義範氏、どうなんだろう!! 矛盾山積なんですけど、もしかして史実に添う発見か?。

南北朝時代の幕府の陣屋説も遠からずなので、未発見の山城の砦なのかもって思ってみてますが、参照ページによると城郭とあるけど、かなり古そうな野面積みが、少し登ったところに数メートル残っている事とも一致する。

近所の五輪塔は鎌倉期よりも古そうなので北朝方の? 源氏? 何個もある瓦作りの祠は、小早川勢の戦時との予測している。左三つ巴の家紋が少なくない地域です。

※姫ヶ浜にある「鎧賭松」の話は有名で、屋島の合戦と壇ノ浦合戦の間に、この地を 源義経 一行は通過している。話ほどは、穏やか悠長ではなかったということよね。

そして薄い小さい破片ですが、これは焦げ跡も付いていて弥生土器のものではないかとの推測。それらしきははじめて。

・・何か見たことないものばかりで全容も分からないし、「みたいな」とか、「のような」とか多くて、呼び名も付けられないですね~実際(笑:)。

中国や朝鮮半島の文化が、大阪や奈良、京都より速く伝わっていたのではないかと思ったりもしてまして、邪馬台国ですよね~。「国内最古とか最大」のとかってなると人目も引くのよね~。

あっ!!
今、話題の仁徳天皇陵とされている百舌鳥の古墳群ですが、百済王のものではないかと聞いたことある。軍を引き連れて倭に逃げ延びてたとすると門司~瀬戸内海ときて→ 大阪湾ですから~。王が亡くなった後、残された従者たちが乱れ、倭が乱れないよう高句麗に攻め込まれない為の対策で国力を大きく偽装したのかも


淮陰侯列伝の一説に、"敗軍の将は以って勇を言うべからず、亡国の太夫は以って存を図るべからず" ってのがあるらしいけど、これらも「敗軍の将、兵を語らず」・・遺言的事なんだろうかね~。

まぁでも屋島の合戦以前は、瀬戸内海の勢力は圧倒的に平氏側有利だったと思うんですけど、この忽那諸島内も完全に、南vs北で2分していたらしいし、・・画策がうごめく以上、決め付けるにはまだまだ情報が足りていない。


崖面の壺らしき(まだ全容は見えてませんが、上下が不明で、口が開いていない様子)は櫛目模様から、縄文土器ではないかとの予測できましたが、地区の道作り組合の方々が掘り出した石群は、既に当初の半分以上行方不明みたいですけど、これが副葬品だとすると古墳時代の古墳とも、そうでなくても竪穴式住居跡の痕跡とは考えられる。

釉薬も3重にも4重にも塗り重ねられているような感じで、まだしっかりと下塗りの色が残っている様子が伺えてるから、解析も可能そうで、かなり珍しいとは思えてますよね。

余談ですけど、瀬戸内海(忽那諸島)の海賊の馬印のひとつが、「六つ鐡」という事でしたけど、島内に六つの勢力があったか、瀬戸内海の海賊衆に6つの勢力があったか。やっぱ陸地より耐久性が強くないと脆くて直ぐに錆びたり朽ちたりは日常茶飯事なので、土器にしろ、鉄器にしろ、そのひとつひとつが長い年月をかけて鍛えられしワザモノだったことも伺える。



そして畑の奥の方の崖面でも・・
別の土器発見.jpg
何か土器らしきが埋まっているのを新発見です。以前から時々出ていた汽水域の2枚貝もまたまた、そこそこ出てきている様子。

そろそろ貝塚との証拠も欲しいところなのですが、予算も、経験も、知識にも乏しいといった現状で、指をくわえたまま足踏み続きそう・・

・・水路に詰まっても困るので、もっか落ちてきた貝殻と瓦の破片を集めてるといった状況。


土地の管理者の権利境界とか、地区の道作り組合とか、田舎なので意外とめんどくさい事もあるのかも知れないですね(汗;)。

道真の子孫で、藤原親賢が配流されてきたのが忽那水軍の始まりらしいけど、忽那重義の子孫で、忽那重清(兄・泰山城主)は北朝方、忽那義範(弟)は、懐良親王(かねよししんのう) 南朝方だったらしい。これが城郭なら、地元民も借り出されていたのではないかと思えてきた。

※ちなみに北(天皇家)と南(造反側の天皇家)の分け方は、当時、今の中国で作られた地図によると、日本列島は、朝鮮半島の先っぽから、壱岐対馬を経て、東に向かって延びていたという位置関係から、朝廷2分裂後の拠点を分けた呼び方で、太平洋側を北としたからみたいよね。


※1600年、関が原の合戦時に、毛利氏により三津浜が夜襲されているようで、伊予国の東軍方、加藤嘉明と藤堂高虎の領地は、強襲されてるみたいだけど、祠は、この時のものの可能性もありえている。




しかし、すべてがホンモノならば、まだゾウやシカを狩りしていた頃から最近までの歴史、証明書付きで、一挙に伺える スーパー・パワースポット だよねーここ。

島伝説の宝石箱や~ん v(笑;)!!



PS : 7日 23時頃の事。
山の上ほうには生息があるとは聞いてたけど、生まれてはじめて庭で 蛍 みた。サッシ窓に貼り付いて光ってたので、デジカメで撮ろうとしたら、ヤモリに食べられたー\(爆;)/。


 ひがし窓 ここにいるよと 恋蛍
             from うっぴぃ~

特に小さいという感じは無かったけど ヒメボタル かな?
nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

埋設物の件続き [諸島の謎々]

続き

で、そもそも数年前に数枚の汽水域の貝殻が崖面に露出していた事から始まったことでしたけど・・

https://petamun.blog.so-net.ne.jp/2019-04-13
土器らしき壺に関しては、まだはっきりしていませんで、レプリカだとしても土の中から出てきたものだから、経緯を調べないといけないとは思っていたのですが、炭素年代測定に関しても、個人からの依頼は受けていないという事で、安くないのだろうね。

汚職とか関わってるとかね、ついついそっち方向で考えてしまうけどね~。

なので公的機関としか関わっていないのが現実みたいだから、金銭次第で、年代のすり合わせとかもできちゃうのかな~(汗;)
磨製石器時代の砥石.JPG
地区の道作り管理組合というのがあって、たぶんそこが管理しているのだと思うけど、以前の石群に関しても進展がなくて、今もそのままの状態なんですょー。

石器時代の砥石.JPG
それ改めてじっくり観察していたのですが、花崗岩や安山岩か石灰岩が多そうな中、何個か種類が違う古そうな石もあり、風化の仕方、砕け方や不自然な傷や角の削れ方から、旧石器~磨製石器時代から使われてる砥石とかではないかと思いついてまして。古代集落においてあったものですよね、きっと。それがいつのまにやら副葬品にみたいな

https://petamun.blog.so-net.ne.jp/2013-02-05
時代が異なるものが一緒に混同しているという感じもしているので、何世代ものあいだ、古代人の生活の場がそこにあったようにも思えたり

具体的には
2枚貝が汽水期のものだとすると、それは氷河期ですから、崖面には横穴式の住居もあったとの予測も出来なくもないし、土器らしきは、円底でクシ目文様があり、泥釉が施されている感じからして、~弥生期の木の実などを保管していた壺か、打楽器か副葬品かだとすると、水位も今と然程変わらないから、サザエの殻と一緒に出て来ても不思議ではないとも思うのですが、磨製石器であれば竪穴式住居戸跡か古墳ではないかとの予測も

まぁ、重信川河口を思い出すと、この島でも、面積も高さもそこそこあった時代だから、汽水貝が生息できるスペースはないとは言いきれないです。

また
周辺に小さな祠が沢山あるのは、源平の合戦による平家の落人(へいけのおちうど)だと高齢者からは聞いてるけど、それだとやや辻褄がね?。確証がないのが確証かもしれませんが、土製管や土師器みたいなものも、その方々の持ち物か、追われいる身の上で応急的に作ったものの可能性も否定はできていないのだけど
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%AE%B6%E3%81%AE%E8%90%BD%E4%BA%BA
wik参照

もっとも、貝塚の下には良くあるらしいですから、古代の人骨とかが出土してたとの推測も無くはないので、まだ何とも

貝殻の破片は時々出てきてても、過去にある程度処理されているとすると、貝塚は見つからない事もうなずける分けでして~。

百済の土製管.JPG
本日も一昨日の雨で2枚出てたよ。たぶん土製管ではないかということですが、だとすると

ttps://4travel.jp/travelogue/10828538
↑ こちらに貼り付けられているものと似ている感じなので、そうだとすると半島(百済)から持ち込まれたものって事になるのかね? 京に向かう途中で海賊に襲われて遭難したとかだよね。

国内は、明日香村の飛鳥寺跡から出土した最古の水道管が唯一の例みたいだから史実が変わる? おそれも

全体像を見ない事には、これ以上は進みようもないのですが


で、この地域のお話に戻りますが・・
源平の合戦や南北朝時代や戦国期がメインなのですが、忽那水軍の島である以前に、平家の隠れ里になっていた地区もあるのかも知れないよね。

忽那っていうのは島々が骨をちりばめた様子に似てた事から、8世紀以前に「骨奈」とつけられた名称だと記されているってあったけど、戦の時代を知らない者にとっては、そんな風にはまったく見えない絶景ですし、古代人の人骨や動物の化石でもが、あちこちで発見されていた時代もあるのかなぁ~とは思えてたのよね~

この地で、水軍最強時代を一代で築いた忽那義範さんは、藤原道真さんのひ孫らしいわ。大宰府を拠点に、瀬戸内海の海上交通を支配し、いつか京へ返り咲こうとしていた感あるね。ちなみに藤原氏は、大化の改新の中臣鎌足が源流という事でしたけど、この藤原氏も鎌倉時代には、嫡流が五摂家に分立し、源流は没落している。学問の神としては今も生き続けているけどね。


ネットで調べているうちに、三津の近くにある忽那山というのを発見した。

伊予の国の豪族で最大勢力だった河野氏と支従関係があった頃の陸側の警備拠点なのかもしれません。

この島の海賊衆は藤原系地方土着列ということなので、普通は、屋敷や寺院で、城は築かないはずなのですが、それらが戦国期に築城しはじめ水軍となり武家化しなければならなかった理由もみえはじめてきた。1588年、秀吉の海賊停止令まで続く。

続きはまたいつか
nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感
前の30件 | - 諸島の謎々 ブログトップ