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高天原って何処? [諸島の謎々]

こうてんはらって打って漢字変換すると「府中店原」なりましたけど、府中ではないですよね?

地図では奈良や京都、大阪あたりに高天原って地名は沢山ありますけど、日本書紀や古事記の編集の際に、地名として置き換えたものとは思えてるけど。

内容は、神武天皇以前の神々の話なので、視野は広く倭国内に留まらずだとの予測もありまして~

高千穂峡や上高地のような秘境だとは考えたいものですけど、もしかすると中国の高地、更にその岩山の上ではないかとか、霧が立ち込むと見えなくなってしまうというウーロン茶とかの生産地かな?

神武中国人説といますか、神々って、共通して、両羽の剣や銅鏡や勾玉、弓とかを持っていたとされてまして、いわゆる三種の神器って奴ですけど、実際には10種類以上あるらしく~

これが、国々、種族、直系を示すものだとすると、大陸からの移住者ということになりませんかね。?

主には、隋や唐以前の上海や黄海の周辺の国々、朝鮮半島からの移民で、最終氷期の7~1万年くらい遡ると、サハリンからの移動も少なくなかったはずですけど・・

ルーツですね~。

黒潮や数多くの火山活動の影響で、国内某所とても温かかく、雨も良く降り、動植物も豊富で暮らし易い場所が多かったハズなんです。

氷期は、陸続きなので移動に大きな船も必要なかったんですよね、たぶん。


その船と云うと
倭国は島国なのに船の歴史もハッキリしていません。弥生期の船の土偶や土器に描かれた船くらいは残っている程度。具体的には縄文丸と安宅船くらいはわかったけど、瀬戸内海でダウ船が使われていたかどうかなどまだ不明な事も少なくない。

関門海峡って人工の運河ではないかという説もありまして、じゃ何時作られたのよって事ですが・・、遣隋使の時代(6世紀後半~7世紀初旬)、天津市では大運河を開通させていますから~


また "白村江の戦い" の話を聞く限りでは、遣隋使の頃には、木造の軍船を数千隻は維持していたのではないかとの予測もあるから、それ以前なのは間違いないのですけど・・

神武東征の際にも1000隻余りの軍船で南港目指してますよね。紀元前660年です。操船術、航海術もかなりのものだった筈です。

これって日向の国をもぬけの殻にして、というのは考え難いから、既に九州全域は従えていたと考えるべきですけど、太平洋側を伊勢方面へ進まず、なぜか、日向 → 国東半島 → 下関 → 山口 → 周防 →→→ 南港 のルートらしい。

だとすればですが

鳴門付近が、勢力も含め難関なのを知っていた事になる分けだけど、既に中・四国も支配していたのかもって考えると、西日本の大半は従えていたとすれば、この時期に、1世紀くらい費やして関門海峡が造られた可能性は検討の余地あるのかも

大陸との交流もあったとすれば、地中海文明みたいに海上貿易の繋がりは必要なので古代、船はいろんな用途で重要な役割を果たしていた事になる。ただ日向の国以外にも、出雲やその東側の葦武山から神武東征がはじまったという説もある。

・・で、高天原って何処にあったんだろうか!!
天津(てんしん)の事ではないのかな?

古墳分野では "896の聖域" って呼ばれているらしいですけど、古文書などの歴史資料からも、様々な事情で、今もって公開できない部分も沢山あるのでしょう~。邪馬台国に関してもそうかなって・・
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