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スーパーパワースポットなのか!! [諸島の謎々]

関東はすっかり梅雨らしいけど、四国もそろそろ梅雨入り宣言ですかね~

昨夜は不意に降られてしまって、風も強かったようで、ペットボトルはあちこちに散乱してるわ、やっと出来たアロエベラの実(種)も、おこってしまってるわ~(今年もやっぱダメだったか~\(-o-;)/)。

朝は、庭が大騒動でした(汗;)。


という分けで、
このコーナーでやってる古代遺跡かな? の件ですけど、また行ってみると・・
透かし瓦06072019 出土.JPG
例の土管と見られる素焼の土器らしきのところですが・・

横から瓦みたいのが出てきてた。丸に2つか3つの引両紋 透かし瓦ですかね?
※2つだと鎌倉~室町時代の源氏~足利将軍家、或は織田家の家紋ですよね~。
3つだと伊達家の伊予の国の庶流家あたりかな?
もっとずーっと後の世の 藤堂高虎 絡みかな? この人物はヤバそう

ttp://www.ritoumeguri.com/experience/26428.php
↑ 参照ページです。
道真との関わりは平安時代なので、忽那義範氏、どうなんだろう!! 矛盾山積なんですけど、もしかして史実に添う発見か?。

南北朝時代の幕府の陣屋説も遠からずなので、未発見の山城の砦なのかもって思ってみてますが、参照ページによると城郭とあるけど、かなり古そうな野面積みが、少し登ったところに数メートル残っている事とも一致する。

近所の五輪塔は鎌倉期よりも古そうなので北朝方の? 源氏? 何個もある瓦作りの祠は、小早川勢の戦時との予測している。左三つ巴の家紋が少なくない地域です。

※姫ヶ浜にある「鎧賭松」の話は有名で、屋島の合戦と壇ノ浦合戦の間に、この地を 源義経 一行は通過している。話ほどは、穏やか悠長ではなかったということよね。

そして薄い小さい破片ですが、これは焦げ跡も付いていて弥生土器のものではないかとの推測。それらしきははじめて。

・・何か見たことないものばかりで全容も分からないし、「みたいな」とか、「のような」とか多くて、呼び名も付けられないですね~実際(笑:)。

中国や朝鮮半島の文化が、大阪や奈良、京都より速く伝わっていたのではないかと思ったりもしてまして、邪馬台国ですよね~。「国内最古とか最大」のとかってなると人目も引くのよね~。

あっ!!
今、話題の仁徳天皇陵とされている百舌鳥の古墳群ですが、百済王のものではないかと聞いたことある。軍を引き連れて倭に逃げ延びてたとすると門司~瀬戸内海ときて→ 大阪湾ですから~。王が亡くなった後、残された従者たちが乱れ、倭が乱れないよう高句麗に攻め込まれない為の対策で国力を大きく偽装したのかも


淮陰侯列伝の一説に、"敗軍の将は以って勇を言うべからず、亡国の太夫は以って存を図るべからず" ってのがあるらしいけど、これらも「敗軍の将、兵を語らず」・・遺言的事なんだろうかね~。

まぁでも屋島の合戦以前は、瀬戸内海の勢力は圧倒的に平氏側有利だったと思うんですけど、この忽那諸島内も完全に、南vs北で2分していたらしいし、・・画策がうごめく以上、決め付けるにはまだまだ情報が足りていない。


崖面の壺らしき(まだ全容は見えてませんが、上下が不明で、口が開いていない様子)は櫛目模様から、縄文土器ではないかとの予測できましたが、地区の道作り組合の方々が掘り出した石群は、既に当初の半分以上行方不明みたいですけど、これが副葬品だとすると古墳時代の古墳とも、そうでなくても竪穴式住居跡の痕跡とは考えられる。

釉薬も3重にも4重にも塗り重ねられているような感じで、まだしっかりと下塗りの色が残っている様子が伺えてるから、解析も可能そうで、かなり珍しいとは思えてますよね。

余談ですけど、瀬戸内海(忽那諸島)の海賊の馬印のひとつが、「六つ鐡」という事でしたけど、島内に六つの勢力があったか、瀬戸内海の海賊衆に6つの勢力があったか。やっぱ陸地より耐久性が強くないと脆くて直ぐに錆びたり朽ちたりは日常茶飯事なので、土器にしろ、鉄器にしろ、そのひとつひとつが長い年月をかけて鍛えられしワザモノだったことも伺える。



そして畑の奥の方の崖面でも・・
別の土器発見.jpg
何か土器らしきが埋まっているのを新発見です。以前から時々出ていた汽水域の2枚貝もまたまた、そこそこ出てきている様子。

そろそろ貝塚との証拠も欲しいところなのですが、予算も、経験も、知識にも乏しいといった現状で、指をくわえたまま足踏み続きそう・・

・・水路に詰まっても困るので、もっか落ちてきた貝殻と瓦の破片を集めてるといった状況。


土地の管理者の権利境界とか、地区の道作り組合とか、田舎なので意外とめんどくさい事もあるのかも知れないですね(汗;)。

道真の子孫で、藤原親賢が配流されてきたのが忽那水軍の始まりらしいけど、忽那重義の子孫で、忽那重清(兄・泰山城主)は北朝方、忽那義範(弟)は、懐良親王(かねよししんのう) 南朝方だったらしい。これが城郭なら、地元民も借り出されていたのではないかと思えてきた。

※ちなみに北(天皇家)と南(造反側の天皇家)の分け方は、当時、今の中国で作られた地図によると、日本列島は、朝鮮半島の先っぽから、壱岐対馬を経て、東に向かって延びていたという位置関係から、朝廷2分裂後の拠点を分けた呼び方で、太平洋側を北としたからみたいよね。


※1600年、関が原の合戦時に、毛利氏により三津浜が夜襲されているようで、伊予国の東軍方、加藤嘉明と藤堂高虎の領地は、強襲されてるみたいだけど、祠は、この時のものの可能性もありえている。




しかし、すべてがホンモノならば、まだゾウやシカを狩りしていた頃から最近までの歴史、証明書付きで、一挙に伺える スーパー・パワースポット だよねーここ。

島伝説の宝石箱や~ん v(笑;)!!



PS : 7日 23時頃の事。
山の上ほうには生息があるとは聞いてたけど、生まれてはじめて庭で 蛍 みた。サッシ窓に貼り付いて光ってたので、デジカメで撮ろうとしたら、ヤモリに食べられたー\(爆;)/。


 ひがし窓 ここにいるよと 恋蛍
             from うっぴぃ~

特に小さいという感じは無かったけど ヒメボタル かな?
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