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モシカシテモシカシテ [諸島の謎々]

2010年(寅年)に中島総合文化センターで「東京国立博物館里帰り展」が開催されていまして、その際の展示品などを紹介・監修した書籍が無料配布されているという事で、早速、読んでみました。

市の考古館のホムペから pdf も DLで可能
『忽那諸島の歴史を訪ねて』
ttp://www.cul-spo.or.jp/koukokan/information/kutuna_book.html
松山市 考古館 の DL ページです。


https://petamun.blog.so-net.ne.jp/2013-02-05
今更ながらですけど、↑ これらと、3ページ目の右上の石群ですけど、似てますよね~

正確な位置とか、他に出てきたものとかは知らないのですが、数日、経ってから石増えてきてたのでブログにしていたのですが・・


古墳のほうは、東京国立博物館により、古墳時代5~6世紀と推定されているようです。



https://petamun.blog.so-net.ne.jp/2019-06-10
一昨日の旧石器~新石器時代ではないかと思われる石も、近くでわあるのですが、実は古井戸を囲うように何個も並べてありまして・・これも似てるわー。


https://petamun.blog.so-net.ne.jp/archive/c316073-1
こちらの詳細不明な土器にしても、須恵器(縄文~弥生~古墳時代)だと思うのですが、ただ下は卵型で自立しない形、横縞の櫛目紋溝があり、口が開いていないように見えているのですが、もしも蓋があって、何処か別の場所に埋まってるとすると、骨壺なのかもって思ってみてる。

崖に埋まっている土師器や土製管のようなものも、やはり副葬品って事になるのかな?

バラバラに出てくるのって、時代が違うか、農道が作られた際に異動させられたものか、豪雨による土砂崩れか、大地震や大津波の痕跡なんだと行き着いた。



話し戻るけど
火葬は、天皇とか貴族や僧侶の一部では6世紀頃には行われていたそうですから、疑う余地はなくもない? 弥生時代(BC10世紀~3世紀中頃)に大陸から伝播したとか

東京国立博物館に寄託されているという古墳の上においてある瓦作りの小さな祠が同じなんですよね。随分後で作られたものだとは思うけど、こちらの地区には10個くらいはあるはず。・・小さな五輪塔も何個もあるんだよね~。

https://petamun.blog.so-net.ne.jp/2019-03-28-1
あと、この間の金比羅大権現様もこの地区でしかみていないから、何か邪馬台国や朝廷や幕府との関わりが遠い昔からあるのではないかと思ってみてる最中。

出土品かも.JPG
↑ 9年ほど前に隣地区の廃墟で見つけたもの。出土品かな?

ただ、pdf読んでみても、この地域だけ特に情報が無さ過ぎてる様子なので、ハイテク機器による調査とかしないと何も分からないのではないかとは思えてる。或は、古い時代から、そういった部外者の行動を拒絶し続けてきてた過去があるのかも知れないという、海べたの限界集落なのでしたが・・、基本、農道なので、山(柑橘畑)に入るな(登るな)というのは島全域で良く聞いてる話。

渡りの途中で休憩するオアシスなんだと思うけど、池に、オシドリカモとかいるんですよね。
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うっぴぃ〜

PS : 総合文化センター内展示により、小さな五輪塔は室町時代とされている様子。泰ノ山城(1189~1585)、南北朝時代(1340年頃)、光明天皇(北朝側)足利(幕府)勢配下、安芸国 沼田郡 金山城 武田信春との合戦で攻防の様子が忽那文書に残っているらしい。忽那諸島の南北朝の合戦の痕跡。
by うっぴぃ〜 (2019-06-14 02:10) 

うっぴぃ〜

東京国立博物館に寄託されている古墳は、副葬品も立派で、亡骸のお骨は朱塗りだったそうです。

『先代旧事本紀』で、神武天皇東征で、饒速日(ニギハヤヒ)は長髄彦(ながすねひこ)と供に破れ、亡骸は速飄(はやちかぜ)により天に上げられ、49日法要が行われたとあるらしく、西暦300~600年、九州南部からはじまり、宇佐を経て大阪、奈良へ向かう途中、瀬戸内海の何処か? にと言う説もある。
by うっぴぃ〜 (2019-06-16 20:12) 

うっぴぃ〜

ヒンバ族(女)の赤色オシャレは、 ヘマタイトと牛乳バターを混ぜたものを、身体や髪に塗り、紫外線、乾燥、害虫から素肌を保護しているらしい。

因幡の白兎の神話が良い例だけど、瀬戸内海で狩猟を糧にしていた縄文・弥生人にも必要だったに違いないですね。半島からの伝播だとすると、大和堆から出雲に漂着した古代人は少なくなかったのかも・・
by うっぴぃ〜 (2019-06-17 04:19) 

うっぴぃ〜

倭迩迩日百襲姫が卑弥呼かもしれないという記事があった。
因幡の白兎のワニザメって、マチカネワニの事だと思う。そもそも白兎は海を行き来していた古代人ではないかと・・

by うっぴぃ〜 (2019-06-18 12:45) 

うっぴぃ〜

唐~明時代(13~16世紀)、中国・朝鮮の海域で海賊行為を展開していたのが、倭寇。

それらを鎮圧する為、明代には、海南兵備道が設置され警備が厳重になっている。

瀬戸内海は海賊衆の拠点でしたが、邪馬台国~倭朝廷以降、海上の道先案内で通行料を得ていたようだけど、奪ったものが通過していたとすると、外洋の海賊(倭寇)により、長崎などに水揚げされ、南蛮渡来の品々として、都や各地の豪族(末裔)、武家などへ献上されていたのだと思う。

大陸から朝廷への要望もあるらしいので、幕府による統治(武家社会の始まり)、鎌倉~室町時代に、瀬戸の海賊衆が水軍(武家)化した最大理由だとも思える。
by うっぴぃ〜 (2019-06-20 00:10) 

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