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金比羅大権現の石灯籠 [諸島の謎々]

金毘羅信仰の布教の波に便乗した形で、江戸時代1800年頃から、四国では、丸亀街道~多度津街道~高松街道~阿波街道~伊予・土佐街道を幹線とする金毘羅街道が整備されていく。(wik参)

ttp://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:2/36/view/5105
忽那諸島は、1808年の夏、伊能忠敬ら測量士16名が、1週間ほどの滞在で、この地域の地図を作成している。交通インフラを整える為には、まず共通理念で作られた全国地図が必要だった分けだわ。

金比羅大権現(石灯籠).JPG
背丈越えてます。たぶん2mくらいかな?! 地震で少しズレてる感じするね。


この頃の出来事の中で、際立ってるのは、嘉永6年(1853年)黒船来航!!
ペリー船団が浦賀に停泊し幕府と交渉をしてます。

後に、日米和親条約を結ぶ。

幕末、この出来事が、鎖国していた日本を開国へ導いてゆく事になる分けですが、海上および陸上交通・通信インフラの整備を進める事となった最大要因みたいですかね。?!

自分の住むこの町の金比羅大権現の石灯籠は、海上交通の安全祈願や豊稔・豊漁など祈願などとされていますが、まぁいわゆる、統治の道しるべ なんだと思う。

同じ大権現ですけど、東照大権現が家康公の事なので、これとは別物なのかな?! 高齢者の方々が時々お参りしているみたいな

灯篭の横と後ろに刻まれている文字は、風化が進み、完全に読めませんでしたけど、デジカメ画に編集かけてみたけど、やはり全く分からなかった。拓本が必要そうですが、管理者が不明なので勝手にできない現状。

ちょっと前みつけてる詳細不明の石碑の、何かの手がかりになればと思ったけど無理っぽいな~
ってか、元々、何処に置いてあったものなんだろうか?!
子供の頃には、この場所でこの石灯籠を見てた記憶がまったく皆無なんですよね~。



ps : 予測ですが、防予諸島(ぼうよしょとう)の海上交通の道標だったのではと思えてる。建立されたのは、海賊禁止令(1588年)のずっと後だとは思うけど、当時は、海岸にあったのか、或は、遮る木もなく、もっと見通しが良かったのかも知れないですが・・
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