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平安期の天満神社かも [諸島の謎々]

https://petamun.blog.so-net.ne.jp/2019-04-13
壺?! 出たぁ~

の続きですけど・・
出土していると言っても数個の事なんですけど、古そうな瓦の破片やたこ壺みたいだけど何か違う感じしている壺、素焼きっぽい焼き物の破片とか・・、土砂崩れの痕跡ありで、いろんな時代のものが混ざって一緒に出てきている感じで、どうもはっきりしない。

農道が通って柑橘畑が広がっているので、古い時代の地形の予測ができないのですが、ちょっと登ってみると、野面積みの石垣が2~3m残っているところと、小さな五輪塔みたいなのが2つ並ぶ古墳? みたいなのがあった。

その野面もいつの時代のものか分からないのですが、天満神社が元あった場所だと考えると、村の庄屋説や松山藩の陣屋説よりは硬い感じもしてきてるし、謎は広がるばかりです。でも陣屋説が無くなった分けではなくて、例えば、泰ノ山城跡とも近いので、城関連の建物があって落城時に前もって燃やされた可能性もあるのかも。


戦後、実際に、背丈くらいの祠があったという話は聞いたけど、どうも曖昧で確証を得ないまま。

天満神社が元あった場所だとすると、前回の戦国・黄金伝説を飛び越えて、話は平安時代にさかのぼる事になる。

藤原道真公が京の都を追われ、筑紫、大宰府へ移動する際に立ち寄ったのがきっかけらしいけど、島内に全域の各地域毎に天満神社は現在も存在しているんですよね~。

近隣地域には、賀茂神社もあるみたいですけど、これも秦氏と菅原氏とゆかりの多そうな感じで・・

あのひっくり返った碑の文字がもしも "奉" ではなくて "秦" だとすると、また見方は変ってくる。秦ってのは、中国人らしいから、まぁでも江戸時代は苗字が禁止されていたから、その線も無いかー

菅家聖廟略伝には "人にひかせず牛の行くところにとどめよ" という道真公の遺言がありまして、源氏物語の話聞くと、まぁお茶目な感じもするけどね。

そいう教えとして伝わっていたものがあるとすると、・・放置されたまま今に至っているのかもって思ってるのですが、近くの神社には、何十年か前から、ご利益のある牛(臥牛像)がいる様子。


あとは、貝殻だよね~。
地層で年代が分かれば貝塚の可能性も高くなるわけですけど、土砂崩れ跡では、その方法も思いつかない。炭素で分かるって聞いたけど、そんな鑑定できるとこの心当たりない~。

壺に関しても、古い壺に面取りは不自然だし、円底で自立し無さそう。きめの細かい横縞模様が入ってたけど、沈線文土器?。剥げているけどさび止めみたいな赤い塗料が付いてた感じが残ってた。見た目より小さくて手の平大。ほんとに弥生土器なのかな? 黄瀬戸、瀬戸焼、須恵器、大陸土産の壺か、製塩壺か、茶器か、漁具か、神器か、見たことない感じの壺、謎ですね~。昭和の初め頃に大学の研究室で作られた縄文レプリカとしか思えない状況もある。
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