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本能寺が変な理由ってか! [毒吐き誤シップ]

切り口としては、光秀は生きていたですよね~。

歴史上、この時を以て信長の消息は不明ですが…

そもそもこの歴史、絵に描いた餅論、胡散臭さを嗅ぎ付けた人は少なからずいるハズなのですが、この光秀の謀反自体が世間を欺く為に仕組まれたものだとすると…

では、その、なぜ?
ですが、
春秋期に東制の使命でかどうかは定かではありませんが討伐隊、後の天皇家、…いつの時代も国内の混乱を朝廷が好むはずはありませんから。

当時106代天皇は、後奈良天皇の長男で、正親町天皇(おおぎまちてんのう)でした。長い歴史の中で、血で血を洗う戦いを嫌いはじめた天皇家だったのでしょうか、戦国の世は武家により統一に向けて動きはじめます。この頃は、天皇家はまだまだ権力の象徴だったハズでして…

比叡山の制裁は、朝廷から打診されたものだと思うのですが、この焼き討ちで信長軍は、光秀が筆頭になり、比叡山を全滅させ焼き払っている。

国取りの真っ最中ではありますが、この時点でほぼ々、国内統一も果たせていたので、この噂は瞬く間に国内を駆け巡り、信長は、神仏をも恐れない大ウツケと国全民に印象付けしたのは間違いありませんから、反響どころかアンチ信長で全国を結束させてしまい兼ねない現実に晒されたハズでして、跡目を延暦寺侵攻の武将の何れかに譲らなければ天下統一で士気を高めていた信長軍はたちまち崩壊の危機に晒されます。

更なる戦乱が予測できますが、ここで、信長と光秀は戦国の歴史から綺麗に消え去り、序列では柴田勝家で決まりだったはずなのですが、清須会議で秀吉に軍配が上がることになった。この後、見事に秀吉軍は全国を統一を果します。

このあたりまでが、絵に描いた餅と言う事なのですが…

実は、事の成り行きと言うよりは、この変事も朝廷が示唆したのではないかと、あるいは唆されたか、そういうオフレコのやり取りがあるからこそ日本史の変が至るところに存在するのだと推測すると、真実は見易くなるとの憶測をしてみたのですが…

古い?
ごもっとも\(^_^;)/

信長はどこに行ったかですが、予測では大宰府のような部署で素性を変えて暮らしたか、以前に支配下にした瀬戸の海賊衆にでもなったか、朝廷の配流先で落ち着いたか…
よね普通は。?
ちなみに秀吉の大返しで打たれたとされてる光秀は産湯をとった里に帰ってたらしいですけどね~。
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