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郡司は存在してたか [諸島の謎々]

そういえば思い出してますが、移転してきた頃、50年くらい前かな? この地区にも、役場があったんですよ~。今は、電話が置いてあるだけの駐在所だけですが・・。資料によりますと1963年に島東部と統合して行政としては無能化されてる。粟井から宇和間までが、ひとつの自治区だったみたい。

では、それは何時からかと言うと

データベース『えひめの記憶』
三、伊予国人の諸相
1.忽那諸島の海賊衆

のページ、1405(応永12年)を境に、忽那氏は、忽那島西浦上分の地頭職を与えられているとあった。東部ではなくて西部なんですよね。

それ以前は、能島村上氏(海賊衆)が忽那島西部を所管しているらしい。ともに伊予の国、河野氏の支配圏の頃です。

この冒頭に、土着の国人(くにゅうど)が海賊衆を担っているとあるのですが、鎌倉・室町以前は、地頭が土着の国人だと考えるべきか、更にさかのぼれば奈良~平安期の郡司もあったと考えるべきか

・・彼らが海賊衆を先導してたと考えて良いようですよね~。もちろん海上利権といいますか、領土として海域にも支配力を広め、海上交通の利便性に着目していた証だと思う。

この運びだと、純友の名もあがってきても良いはずなんだけどね!! 付き合いもあっただろうし、何か県にとっての不都合なのか、史実の隠蔽なのかも

ここまで、こちらの謎のコーナーでブログにしてきたメモ書き程度の内容でしたが、既に松山市ではないのかも(汗;)、ここから先は今治市のようだな~


国内を統一したのは豊臣秀吉、その礎を作ったのが織田信長という歴史ではありますけど、武家政治が始まる遥か以前、1世紀には既に皇族家が支配していたんだよね~、この国(笑;)。

忽那諸島の謎でしたー\(-o-;)/


PS : 西地区には、獄舎の門の木とされている センダン、樹齢100年以上の巨木が何本かあるけど、コレが関わりあるのかも・・

夏なので、もうひとつおまけで
この地区で首無しの馬が走るというリアルな夢を何度も見るというのを聞いたことがあります。その方は、もうかなり以前にご高齢で亡くなられてますけどね~。


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