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重要文化財クラスなのかも [諸島の謎々]

例の出土の件ですけど、神社や郡司とかの祭事用ではなくて、ホンモノ、いわゆるニギヤハヒ絡みの土器だとすると、重要文化財級の扱いの可能性もありえてるのかなとは思えてきているのですが・・

神話時代の事で紀元前の事だと思ってたのですが、神武天皇の話、マンガやゲームやドラマとかですかね? 日本書紀とか古事記とかですけど、1世紀頃の事のように記載しているものも多そうでして、2000年前後ならば状況次第では、ベンガラ塗装も残っている事も在りえるのではないかと至ってますが


雨にも負けず風にも負けずだね~。
https://petamun.blog.so-net.ne.jp/2019-06-20-1
本日の櫛珠ちゃん!! ※台風通過後(略)

一昨日の夜間は、レベル4の警告も出てたけど、かろうじて豪雨災害は避けられたようで、10mm/時を超えたのは1~2時間くらいだと思う。

で、皇族の配島流の地だという件ですけど、何時の頃からかは分かり兼ねますが、東京国立博物館に所蔵されているという、三種の神器の出ている古墳がある以上は、その頃から支配地域で主従の繋がりはあると考えても間違いではないとは思えてまして

藤原道真公を祀る各地区の神社にしても、藤原純友が瀬戸内海の海賊をまとめていた時期にしても、この距離で、周防や忽那島、能島・因島・来島の海賊衆が関係していないはずはありませんから、しかし記録がないというのは、未だに知られたくない黒歴史があり、隠蔽されている部分もあるのだと疑わない分けには、何も始まらないですし、この島の忽那文書以前の歴史も開かないまま・・


義賊・石川五右衛門(文禄3年8月24日※1594年10月8日)って、戦国期、安土桃山時代の盗賊の頭目がいましたが、この人物の最後は秀吉の家来に捕らえられて、一家全員が、磔や釜茹刑にされてしまいますけど、戦国期に武家屋敷に忍び込み財宝を盗めるものは忍者しかいないよね。彼は、伊賀者という説も既に整っていて、信長に続き、秀吉の動向も殺したいほど疎ましかったのは、当時の朝廷内部(関白の座を奪われたもの)ではないかと思えてまして、そんな史実は何処にもある分けは無いし、秀吉が知ったとしても史実には残せていない可能性ある。天正13年※1585年、日本で初の武家関白就任ですからね~。

甲賀も伊賀も特命で雇われ、特務的な内偵や工作をしていた影の者ですから、簡単には口は割らないですし、今の社会に至ってもその精神は受け継がれている感じもあり、ソースは明かさない事は、業継続の原則的な約定となってる節もある。関わってはいけない組織が関わっている場合は、隠蔽も十分に在りえるという話で、どうすれば丸く出来るのか、事態を治められるのかが最大の問題。


藤原純友の五輪塔では.JPG
例えば、純友の乱も最後には、軍資金の打診か何かで大宰府へ攻め込んでますが、そのような事がなければ、太宰府天満宮が現在も現存できているかどうかは疑わしいところで、写真はH12年の出土品という事で展示されてますが、もしこれが、純友親子の五輪塔であれば、かなり後に建立されたとしても、国内最古という程の古さは感じさせてくれてる。1段目と3段目に謎の穴の加工痕がありDNAが格納されてたのではないかとの予測。梵字も消えてるようだけど、X線検査で何か出てくれば、時代の特定に役立つのかも。

純友の動向には近衛家としての別の目的もあったとは思えているのですが、瀬戸内海の海賊衆を取りまとめているうちに、朝廷や大宰府内部に不穏がある事を突き止めた純友は乱を起こしたが、その後、追い詰められたか、配島流かで、ゆかりのあるこの島で生涯を終えたとすれば、橘氏か太宰府か北家の関係者かによって供養されたのかもって思うこともある。

しかし、震度1~2でも倒れて壊れそうなのに「さわらないでくださいテープ張りだけ」ってないよね。!! 大きさからして、かなりの人物のものには相違ないですし、五輪塔は列記とした墓ですし。こんな形で「室内展示ってどうなのよ」って思うのは自分だけ?

(略)

このパワースポットから農道を少し登ると、かなり古そうな凝灰岩の野面の石垣が数mの残ってるのですが、実は、そこは鎌倉の郡司が置かれてたのではないかと疑ってまして、市に統合されるまでは温泉郡でしたからね。中国や朝鮮半島、奈良や京都から旅で訪れると、この島の先には権現温泉や道後温泉もあるし別府もある。古代、カルデラを形成していたとすると、温泉があった可能性もあるし、あと、地名や住民氏名や職業、出土の透かし瓦や、例の櫛珠ちゃんにしても、祭事用にレプリカを作って保管していたのではないかとか、で襲撃で焼け落ちたか、土砂崩れに巻き込まれたかして、何百年も行方不明という事に・・。言い伝えも途切れた分けですよね~。


ちなみにうちの先祖は、泰の山城の石垣を積んでた人物かも知れないし、隣家の先祖は、その郡司の末裔で、築城を指揮していた棟梁なのかも知れませんし、天満宮の宮司の先祖は朝廷か幕府からの使者だったのかも知れないし、以前も愚痴ってますが、島内でもこの地区だけでして、謎は多いし、何も残ってない分けで(笑;)・・、純友時代か、それ以前からの戒厳令ですかね? 忽那水軍の土台を築いたのも純友に違いないと思えてるし、この地域で匿ってた事もあるのかも

伝え残すことが困難な時代に、石に刻む事もそうですが、何らかの形に残したりは普通ですよね。しかし暗躍が渦巻いてたりすると、至らない氏名や地名、句や唄を詠んでも、やはりトラブルの元で、消されたりも少なくなかった時代が歴史ですよ~。

吹く風、流れる水の如く・・、風水って、そういう歴史背景の現実から語られる術のひとつなのかも~

この島わ? っていうと、大里(おおり)山を中心に風水の八角形を重ねると見えてくるものもあったりして、平城京や平安京が村里作りのモデルではないかと思いあたりまして・・。周囲山麓に人々の多い集落があり、泰の山側には居ない分けではありませんが、また奈良、平安時代頃から今の地区名だったかどうか、境界が何処にあったのかも、まだ分かりませんが、知られていない古い歴史がある事だけは、今回、出土の土器からも計り知れる現状で


島の東側は伊予の国側で、大きな湾、入り江に恵まれているので普通に暮らすには適していますが、古い歴史は、出雲・周防国側から伝播してきたとすると、島の西側が古代から栄えてきていると考える事もできまして、西側は大里山の峰々から成る谷地形も多く、静かに隠れて暮らすには向いていたように思います。


時代が飛び回るけど、紫宸殿の "左京の桜・右京の橘"とは、左近・右近はともに衛府です。藤原氏と橘氏ですよね。それぞれ役目はあったと思いますが、護衛とかを務とする役組織のように思う。で、それの思想モデルなのですが、邪馬台国をセンターとして蝦夷を見た時の、瀬戸内海の本州側と、四国側を示唆しているのではないかと考える事もありまして

※略


海賊していた頃に風早衆の船を何処に隠していたかも謎のひとつで、シロやクダコやカイコやマルコには連絡網も置かれていたはずですけど、津和地や怒和島は適当な場所なのかもって思う。村上水軍の船は展示もされているけど、忽那水軍の船はどんなのだったのかベールに包まれたまま。でも縄文の丸木舟は出土していましたわ。今も文化センターに展示してある様子。杉かな? 何時頃の船か科学的に知る方法とかあれば良いけどね~。


島の不思議は、古代から続くこの特有の支配圏の移り変わりが関係しているのだろうと検討しているところですが、地形にしても人々の暮らしにしても飛鳥時代頃から、地震や土砂崩れの影響は多々あれど、農道や開拓農地以外は、さほど、殆ど、変わっていないとの憶測もある。


"雨降らば地固まる" の意味も少し理解できた気もしてる最中ですが、今回の地区は、秘密の園なんだと思うしかないな(汗;)

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